2011年05月22日

八日目の蝉(角田光代)


 嫁さんが知り合いから借りてきた本。ラストが泣ける、ということで、嫁さんも後半涙々、だったようだ。僕も親子ものでは割と涙腺が緩い方なので、どうなることかと思っていたが、僕には、そこまでの情念の揺さぶりはなかった。というのは、僕が男だから、かもしれない。かといって、退屈で詰まらない小説、では決してなかった。

 解説にも書かれているが、本書は徹頭徹尾、まともな男の登場人物が出てこず、女性(それが親子ですらも)のみで物語が展開する。赤ん坊を誘拐して最初に逃げ込む先は名古屋の老女。その次は女性のみで構成される自己啓発団体(?)エンゼルホーム。ここでは魂の負荷物の例として性差が象徴的に取り上げられる。エンゼルホームを抜け出した先の小豆島のラブホテルも素麺屋でも、主人公を包み込む登場人物は皆女性だ。唯一まともそうな男が、誘拐犯と知らず希和子に思いを寄せる役所職員か。希和子が逮捕され、薫だった少女が大人になった恵理菜としてこの事件をとらえる第2章で、恵理菜の実父秋山丈博、不倫交際相手の岸田が男の登場人物として出てくるが、他者に対して責任を引き受けない無能(とは少し違うか)としてのほとんど符号的な役割でしか登場しない。

 つまり、父親が存在しないまま、親(=母親)と子の関係を描く物語が進行していく。女性の目で描いた子供、そして子を産むかもしれない女性としての娘の目から見た(母)親、という物語に対して、決して自分が産んだ子供ではなくとも母親と子が持つその緊密さに我ら男はかける言葉すら持たず、なす術無く立ち尽くしている、という感であった。

 それゆえに、前半の逃避行より、後半の恵理菜の視点から見た事件の再構築、そして彼女の半生の苦しさ、親であるのに親ではない、家族であるのに家族ではない、という描写の方が心に響いた。もし、恵理菜(薫)が女ではなく、男だったら、おそらく、実の父母に引き取られた後の少年〜青年時代の主人公の話となり、また違った展開となったろう。

 ラスト、恵理菜が子供を産むことを決心し、自分の本当の原風景と知っていた小豆島に渡って行くシーンを、希和子の視線をもって神々しく描いて物語が終わる。ここで思うのだ。恵理菜の子供が男の子だったら、この物語はどこに向かって行くのだろう?と。
posted by おだまさ at 23:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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