2007年09月28日

生物と無生物のあいだ

 講談社現代新書の一冊。分子生物学者の手による表題のような新書だけに、分子生物学から見た生物の定義、というような解説本かと思っていたが、そうではなく、ストーリーテリングの上手い語り口で読ませる書物だった。

 冒頭の野口英世の日米での評価の差異から始まって、遺伝子がDNAであることを突き止めた早すぎた才能エイブリー、DNAの複製装置の原理を発明した奇妙な科学者マリスらの足跡を追い、誰がDNAの二重らせん構造を「発見した」かの科学史ミステリーへと、滑らかな、引き込むような文体で読ませてくれるが、僕に取っての白眉の章はその後の第9章「動的平衡とは何か」だった。

 この章で、著者はルドルフ・シェーンハイマーの、新しく、革新的で、しかし忘れられつつある生命観を述べ、単なる自己複製するシステムを生命とする定義を、それだけでは本質的ではないと否定する。そして、シェーンハイマーの生命観を拡張し、「生命とは動的平衡にある流れである」という定義づける。

 髪の毛や爪、皮膚などだけでなく、生命(我々の身体)を構成するあらゆる部分(分子)は、常に外部から食物として取り込まれる新しい分子によって置き換えられているそうである。このことから、決して静的ではなく、常に入れ替わりつつ秩序を保つ動的な「平衡」状態こそが生命である、という。非常に面白い生命観である。

 この動的平衡状態の流れを説明するもう一つのセンテンスを著者は示している。「秩序は守られるために絶え間なく壊されなければならない。」がそれである。そのままではなぜ秩序は守られないか?それは時間の流れが非可逆的であり、万物はおしなべてエントロピーが増大する方向つまり無秩序な(ランダムな)方向へと変化していくからである。その中で、生命だけが、時の流れに抗おうとして、秩序を守る、つまりエントロピーを増大させず、一定の形態をとり続けるために、絶え間なく秩序を構成している要素を壊し、新しくしていく。この必死の営みが、我々をして存在せしめている。大きな時の流れの中ではわずか一瞬の存在でしかないのに、それに逆らって存在しようとしている・・・そんな切なさが、生命の持つ美しさなのかもしれない。

 それにしても、そうして常に更新され続ける肉体の中に宿っている我々の意識、記憶というものは一体何なんだろうか、と思う。それもまた、時の流れに抗う「秩序」の一つ、なのだろうか。

 後半の著者の研究に関する章では、動的平衡系の許容性として、欠陥を作るべく遺伝子操作したDNAを組み込んだ卵から産まれたマウスは、マウスとして産まれ出るまでにその欠陥を補償していく、その一方で、系が完成した後に人為的に加えて欠陥に対しては、それを補うことができない、という実験事実を紹介している。この部分のより本質的なところは、生命は時間の中に存在し、一度経過したプロセスは二度とやり直すことができないという一回性のものとして生命がある、ということだ。動的平衡にある流れとしての生命とは、常に過ぎていく時間、一期一会・・・そういった刹那を映し出す鏡だ。

 この動的平衡という生命観は、僕には非常によく「腑に落ちる」、感覚として理解できるものだったが、本屋でこの本を買って読もうと決めたのは、その部分を立ち読みしたから、ではない。それは、エピローグに書いてある著者のエピソードを読んだからだ。僕は本を買う前などにあとがきを読むことが多いのだが、この本のあとがきで著者は少年時代の二つの体験を綴っている。一つは、アオスジアゲハの蛹を捕ってきて虫かごに入れ、物置にしまっておいて、半年も忘れてしまったこと。恐る恐る確かめたカゴの中では、羽化したアオスジアゲハは生きているときと同じ美しい文様を見せたまま、乾燥していた。もう一つは草むらで拾ったトカゲの卵。羽化が待ちきれず、卵の中の様子を見るために、殻の一部を切り取って覗き込むと、卵黄をお腹に抱いた小さなトカゲがいた。「次の瞬間、私は見てはいけないものを見てしまったような気がして、すぐにふたを閉じようとした。」(エピローグより)。少年の感覚はまさに正しく、外気に触れたトカゲの赤ちゃんは徐々に腐って身体が溶けていったという。この好奇心と表裏一体の取り返しのつかないことをしたという罪の意識(苦い思い)の告白が、この本を買おうと決めたトリガだった。
posted by おだまさ at 00:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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