2007年12月20日

謎解き広重「江戸百」

 江戸時代の浮世絵師、初代安藤広重・・・最近は歌川派の絵師ということで歌川広重と言うらしいが・・・の晩年の大作「名所江戸百景」(略して江戸百)の、場所の選択性、暗喩としての描かれているものの意味を推測したもの。

 僕は浮世絵好きというわけではないのだが、これまで幾つかの作品についてエントリをアップしたこともある作家高橋克彦氏の出世作が浮世絵にまつわるものであったり、また一方、江戸後期を舞台に剣客商売、鬼平などのシリーズものを書き続けた池波正太郎氏を読み進めていることもあって江戸時代はどういう様相だったのかに興味があり、その時代の風物が活写されている浮世絵に興味を持った次第。この本は、新書サイズながら江戸百の半数近くを1ページ分の図版として、また縮刷ではあるが江戸百の全てを、いずれもカラーで掲載しているので、江戸時代の「風景」を概観できそうだと思って購入した。

 果たして、そういう購入当初の目的には充分適うものだった。

 その一方、タイトルにある謎解きという意味では・・・それを謎と呼ぶべきかどうか、いささか異論を持たざるを得ないが、著者は、広重(とその版元)が、何故その場所を江戸百景に描き、絵にある事物を描いたのか、という点を謎と呼び、推測している。いうなれば、著者なりの解釈と言おうか。そして、その前提としたのが、「絵の制作とできごとが対応している」ということ、そして安政の江戸地震からの復興を謳いあげるためのもの、ということだ。

 しかし、全体としてみたとき、著者のいうような何らかの情報をコードとして密やかに仕込まれているとまで言うのはいささかオーバーに過ぎないかと思える。浮世絵の発禁も当時別に珍しいことではなく、それを恐れてあえて仲間(それは狂歌仲間か?)にのみ分かるような情報を仕込んでいる、という前提に必然性が無いように思うのだ。

 逆に、そういう目で見なくとも、例えば「浅草田圃酉の町詣」に書かれている白猫はあからさまに描かれない遊女をシンボライズしたモノだ、という点は当時の風俗を踏まえた解釈で分かりやすい。その他、「玉川堤の花」が新名所誕生のキャンペーン用であった、とか「日本橋通一丁目略図」の雑踏が当時広まり始めたかっぽれだ、というような(謎解きの)主張も、江戸百が描かれた時代背景あるいは、情報媒体としての浮世絵の意義を推測、あるいは示すモノとして非常に面白いし、場所だけでなく、場所性(その時代の雰囲気をも含む)が取り込まれているところに、単なる絵画ではない浮世絵名所絵の面白さ、奥深さがある、ということは充分伝わってくる。確かに謎はあるのだが、コードとして仕込まれたものというよりは、当時は皆知っていた時代風俗・状況を知らない我々だからこそ謎に見えるのではないかと思う。

 それにしても。江戸時代というと、明治以前の、いわゆる歴史の世界という感があり、日本を江戸以前と明治以降という形で分けてしまいがちなのだが、この江戸百が描かれたのは安政三年(1856年)から安政六年(1859年)。一方、江戸時代の終焉となる大政奉還はそのわずか10年ほど後の1867年だ。江戸時代から明治へ・・・人は変われど日本の風景はその後しばらくは江戸の面影を残していたのだろう、と当たり前のことに思いを馳せながら、江戸百を眺めた。そして、その大胆な構図、写実的な描写の迫力に目を奪われた。
posted by おだまさ at 00:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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