2005年11月07日

「キリストの誕生」遠藤周作

キリストの誕生(遠藤周作、新潮文庫)

本棚を整理していて、昔買った文庫本を久しぶりに引っぱり出した中に、遠藤周作氏のこの本があった。氏の小説やエッセイは高校〜大学にかけてよく読んでいた。始めは狐裏庵銘のエッセイから入ったが、やがて純小説に読み進み、出会ったのがこの作品の前作にあたる「イエスの生涯」だった。以来、氏のイエス・キリスト観を織り込んだエッセイや小説を良く読んだが、当時、何度も再読したのは、やはり「イエスの生涯」であり「死海のほとり」だった。それは、それらが最も色濃く「永遠の同伴者イエス」を描いていたからであるが、高校から大学にかけての心の揺れ動きの中で、そういうものを求めていたからかもしれない。

「キリストの誕生」は「イエスの生涯」の続編であり、この2冊が一体となって、氏のイエス観が環を閉じるのだが、当時の僕は、「キリストの誕生」をあまり良く理解できなかった。同じ頃に買ったにも関わらず、この2冊の文庫本は表紙のすり切れ方が全く違っている。それだけ「イエスの生涯」をむさぼるように繰り返し読んでいたのであり、当時の僕にはイエスそのものを描いた「イエスの生涯」を感じることはできても、弟子(使徒)のその後を描いた「キリストの誕生」には感情移入できなかったのだと思う。

およそ10年ぶりに「イエスの生涯」そして「キリストの誕生」を読んだ。「イエスの生涯」には当時ほどは瑞々しい感動はなかったけれど、それは今の僕がそれなりに充足しているからかもしれない。一方の「キリストの誕生」は、これまでになく面白く読めた。

今日の聖書考古学は当時よりも進歩して、おそらく氏の解釈は既に色あせたものかもしれないが、聖書という原典に準拠する氏の解釈を改めて興味深く読んだ。

 氏のイエス観は「現実には無力だった人」、「結局は何もできなかった人」であり、それ故に「愛そのもの」であった。その生涯を克明に表したのが「イエスの生涯」であるが、エルサレムの外れで神殿警備隊によって拘束され、ユダヤ教の衆議会、ユダヤ知事、ガリラヤ分国王にたらい回しにされた挙げ句、処刑された無力な男が、厳格な一神教の風土のあったユダヤにおいてなぜキリストとして神格化されたのか、というキリスト教誕生の謎に対する挑戦が本書「キリストの誕生」である。

キリスト教誕生にまつわる興味深い点を遠藤氏の論点に沿って幾つか上げてみると、
  • ユダヤ教はヤハウェを絶対神とする厳格な一神教で、(イエスがその価値は愛よりは高くないとした)律法と神殿はユダヤ教徒から絶対視されていた。
  • 十字架による磔刑は、当時のローマが政治犯を処刑するための刑罰で、ユダヤ教の異端者に対するそれではない。
  • イエスのような神の言葉を伝える預言者は、当時多数存在し、また宗教的指導者として組織を率いる者もいたが、死後、その人自身が神格化された者は、たとえ過去にさかのぼっても(モーゼやダビデがそうならなかったごとく)イエス以外にはいない(一神教の風土では、個人が神格化されることはありえない)。
  • ユダヤ教では木にかけられた者は神に呪われる、とされていた。
  • イエスの神格化は、生前のイエスを見知っていた人々が多く生き残っていたイエスの死後10年程度で既に始まっていた。
  • イエスは、その神格化により理想の人間、あるいは理想の信者としてではなく、信仰の対象そのものとされた。

イエスの神格化とキリスト教の誕生を考える上で、ポーロの回心・ユダヤ教圏外への布教と西暦70年ごろのローマ軍によるエルサレム陥落が非常に大きな意味を持っているだろう。ユダヤ教の律法から見るとイエスの生涯は冒涜的であり、ユダヤ教徒に受け入れられる余地はほとんど無いと思える上に、エルサレム陥落でエルサレムに居たと思われるユダヤ教により近い原始キリスト教団はほぼ崩壊した一方、ポーロ神学がエルサレム無き時代のキリスト教をはぐくみ、世界に広めたと考えられるからだ。

しかしそこにおいても、ポーロが迫害を受けつつローマ領内を布教したことは明らかであり、彼自身がそれまで厳格なユダヤ教とで厳守してきた律法を捨てて、何故それほどまでに生前会ったことすらないイエスを「神の子」として信じ、命を懸けて布教したのか、という点でやはりイエスの神格化という問題に立ち返らなければならない。

何がイエスをして神の子ならしめたのか?言い換えれば、何が弟子・信者をして殉教に至らしめるほどの信仰心を持たせたのか?イエスが布教を行い、処刑され、弟子達が教団を組織し活動を行った50年くらいのわずかな間に一体何があったのだろうか。これは、キリスト教という宗教の枠組みを離れても、人の心の問題として、あるいは人類の歴史の問題として、非常に興味ある問いだと思う。文字によってその時代をたどることのできる歴史書の残る時代、場所において、まさに新しい宗教が誕生しているのだから。

「イエスの生涯」がイエス本人の足跡を直接辿ろうとした書物なら、本書「キリストの誕生」はイエスの周りにいた弟子達の行動の軌跡から、イエスを捉えようとした試みであるといえる。両作品ともにイエスという男がキリストになった謎を追いかけているが、その向こうに氏の信じるイエスの姿、次のように語るイエスの姿を浮かび上がらせている。
重荷を負うている 全ての人よ
来なさい わたしのもとに
休ませてあげる そのあなたをマタイによる福音書11-28

問いに対する答えは示されていない。それは問い続けるものであり、答えは永遠に得られないのだろう。
posted by おだまさ at 00:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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