縄文時代からの原日本人、日本文化に対して、独自の思想体系を生み出してきた梅原氏の親鸞あるいは「歎異抄」に関する過去の著作や講演録をまとめたもの(小学館文庫)。書かれた時代も1984年〜2000年で、文庫化にあたり加筆修正されているようだが、全体としてややバラバラの感はある。されど、これまでほとんど名前しか知らなかった親鸞、浄土真宗、そして歎異抄について、梅原氏の視点で照らしだされた姿を見ることができて、色々と考えるところがあった。
書の構成は、親鸞その人について、浄土真宗教団の発生と発展、歎異抄と蓮如、そして歎異抄について、という内容からなっている。教団については、人間関係がややこしくてなかなかすんなり頭の中に入ってこなかった。それはそれとして後半の蓮如、そして歎異抄から伺い知る親鸞の信仰(ただし、歎異抄によってのみ親鸞を理解するのは適切ではないと著者は語っている)が非常に面白かった。
歎異抄も梅原版現代語訳が付いているので読みやすく、突き抜けたような内容に驚いた。特に第九条。著者の唯円が親鸞に、「念仏を唱えていても楽しくない。楽しく暮らせるはずの極楽浄土にも早く行きたいという気持ちにならない。これはどういうことでしょう。」と問いかけると、親鸞が「自分もそうだ。」と応えたというではないか。浄土真宗の開祖とされる親鸞が、だ。そしてこう応える。「喜ばないから、かえってわれらの極楽往生はまちがいないと思わなければなりません」(梅原訳より)。著者も指摘するおそるべきパラドックスだ。
他にも、往生するために善行を積むということは決して極楽浄土に往生するためにならない、という文言がそこかしこに出てくる。「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。」という有名な、激烈なパラドックスの一節がそれを端的に言い表している。
この非道徳的な教えは一体なんだろう、と思う。そして著者の指摘にハッと気が付く。「信仰(あるいは救い)は道徳ではない」と。
西洋はユダヤ教、キリスト教に代表される一神教であるのに対し、東洋(日本)は八百万の神で多神教とはよく言われるが、この著作から思われる処は、浄土真宗もまた、阿弥陀仏という唯一絶対神を中心とした信仰である、ということだ。もちろんそれは罰する神、道徳的な神ではなく、自分の中の悪、煩悩に悩み迷う無明の徒を救う神(仏)だ。この点で、親鸞の考えは、イエスが語った山上の垂訓「幸いなるかな 心貧しきもの。天国は彼等のものなればなり。」と見事に重なってくる。まさに唯円が遺した親鸞の信仰はイエスのそれと同じと思えてならない。救われるのは立派な人、裕福な人ではなく、自分の業の深さ・心の弱さに悩み、右往左往している凡夫なのだと。そのために仏(神)はいるのだと。こういう弱き者を肯定する信仰というものが日本にあったということに驚いた。弱き我々を救うのは唯一超絶的な存在しかないとすることで、我々の弱さ、無力さが肯定的価値観へと転換される、という不思議さ。
こう解釈すると、自らの弱さを悔いている徒への救いは道づけられるのだが、残るのが自ら悪へと志向する徒がどうなるのか、だ。僕がかつてよく読んでいたキリスト教作家遠藤周作さんが晩年の著作で立ち向かっていたのがこの悪の問題だ。本書でも、著者が「親鸞の深い宗教的体験を感じさせる悪」と表現している。そして著者によれば、この奥深い悪を内包した人間も(こそ?)救われるというのが親鸞の教えであるようだ。それは遠藤氏が最後にたどり着いた母なる河と同じ、全てを委ねるところに、在るのだろう。
余談ながら、仏教の場合、聖人という存在が信者にとって仏(阿弥陀仏)と同一視されるレベルなのか、それともある理想の信者であるのか、よくわからない。されど、あくまで救いをもたらすのは阿弥陀仏の発願であるとすれば、やはり絶対神は阿弥陀仏のみ。親鸞も理想の信徒という姿であるのなら、同じような思想を説いて神格化されたイエス、という存在の不思議さをあらためて思う。