2013年08月07日

秘密(池波正太郎)

 秘密を抱えた主人公。誰しも人には言えない秘密がある、その多重性がもちろん物語の主軸ではあるが、個人的には、それよりも一度江戸を離れた主人公が、三年ぶりに戻ってきて、数少ない自分の理解者、滑川勝庵により全く以前のままに保たれていた隠宅を見、そのことに感激する描写にこそ心を打たれる。それは、著者の心の告白なればこそだ。変わらないもの、変わらないこと、変わってはいけないもの。作者の晩年のエッセイを読めば共感できるであろうそのことが、本書の横糸を成している。
 昔のまま、まるでずっとそこで生活をしていたかのように変わらずある隠宅の様子を見た主人公は、逃げ隠れる人生をやめ、いっそ清々しく生きる決心をする。それはおそらく、無い物を無駄に求める人生ではなく、自分の中に在るものを大切にする生き方ではないだろうか。
 それはさておき、本書にとどまらず、作者の他の作品、エッセイを読むと、ひどく安心する、ほっとすることがある。人は誰も、白、黒で割り切れるものではない、ということに、である。作者の本の解説によく出てくるこの意味の言い回しは、四十の半ばを迎えた僕にとって、他人との関わり合いの中で、一つの真実として、存在している。
 それは、本書のテーマとしては、人は誰しも他人には知られない幾つもの面を持つ、ということでもあるが、人は誰しも理不尽な存在であり、善か悪か、正しいか間違っているかだけではない(それでいいのダ)、ということを僕に再確認させてくれるのである。そのことを伝えてくれる作者に、僕はひどく安心をしているのだ。
 ラストはある種、予定調和的に幕を閉じるが、それで良かったと思う。これからも幸せな人生を送るであろう二人の旅立ちは、しかし、爽やかに、という感じではなく、どこか寂し気なハッピーエンドに思えるのは気のせいだろうか。



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2012年01月22日

江戸城を歩く(ヴィジュアル版)(黒田涼)

 出張で上野駅の仕事の後、市ヶ谷へ向かった。ここの用事を済ませた後、江戸城外堀沿いを歩いて、JR市ヶ谷駅へ。この、外堀の北側からJR市ヶ谷駅へ向かう橋の下の石垣は、実は江戸城の遺構で、市ヶ谷門に続く橋台で江戸時代からの石垣だ、ということを本書で知った。市ヶ谷駅ホームから眺めると、橋の丁度下に外堀の2/3位を占める、本当に巨大な石垣が弧を描いてそびえているのがよくわかる。

 しかし、これが江戸城の石垣であるという説明はどこにもなく、なんだか寂しい限りだ。石垣とJRのホームの間には無粋な看板があって、真正面から見ることもかなわない。また、石垣の上面が斜めになって外堀間をつないでいる様子が見えるが、これは、おそらく道路を敷く時に削られてしまったからなのだろう。それだけ、江戸城外堀の内側(本丸側)と外側には高低差が設けられていたのだ。

 本書によれば、それとは気づきにくい江戸城の遺構は他にも色々あるようだ。こういう今もかろうじて残っている江戸城の遺構から、江戸城、江戸の街ということを思い起こすことができるところが、東京の貴重なところだと思う。東京の街を歩く機会というのはなかなか無いのだが、本書片手にもっと色々なところを歩いてみたいものだ。
ラベル:江戸城
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2011年05月22日

八日目の蝉(角田光代)


 嫁さんが知り合いから借りてきた本。ラストが泣ける、ということで、嫁さんも後半涙々、だったようだ。僕も親子ものでは割と涙腺が緩い方なので、どうなることかと思っていたが、僕には、そこまでの情念の揺さぶりはなかった。というのは、僕が男だから、かもしれない。かといって、退屈で詰まらない小説、では決してなかった。

 解説にも書かれているが、本書は徹頭徹尾、まともな男の登場人物が出てこず、女性(それが親子ですらも)のみで物語が展開する。赤ん坊を誘拐して最初に逃げ込む先は名古屋の老女。その次は女性のみで構成される自己啓発団体(?)エンゼルホーム。ここでは魂の負荷物の例として性差が象徴的に取り上げられる。エンゼルホームを抜け出した先の小豆島のラブホテルも素麺屋でも、主人公を包み込む登場人物は皆女性だ。唯一まともそうな男が、誘拐犯と知らず希和子に思いを寄せる役所職員か。希和子が逮捕され、薫だった少女が大人になった恵理菜としてこの事件をとらえる第2章で、恵理菜の実父秋山丈博、不倫交際相手の岸田が男の登場人物として出てくるが、他者に対して責任を引き受けない無能(とは少し違うか)としてのほとんど符号的な役割でしか登場しない。

 つまり、父親が存在しないまま、親(=母親)と子の関係を描く物語が進行していく。女性の目で描いた子供、そして子を産むかもしれない女性としての娘の目から見た(母)親、という物語に対して、決して自分が産んだ子供ではなくとも母親と子が持つその緊密さに我ら男はかける言葉すら持たず、なす術無く立ち尽くしている、という感であった。

 それゆえに、前半の逃避行より、後半の恵理菜の視点から見た事件の再構築、そして彼女の半生の苦しさ、親であるのに親ではない、家族であるのに家族ではない、という描写の方が心に響いた。もし、恵理菜(薫)が女ではなく、男だったら、おそらく、実の父母に引き取られた後の少年〜青年時代の主人公の話となり、また違った展開となったろう。

 ラスト、恵理菜が子供を産むことを決心し、自分の本当の原風景と知っていた小豆島に渡って行くシーンを、希和子の視線をもって神々しく描いて物語が終わる。ここで思うのだ。恵理菜の子供が男の子だったら、この物語はどこに向かって行くのだろう?と。
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2010年03月15日

パンドラ・ケース よみがえる殺人(高橋克彦)

 高橋克彦の美術関連ミステリーでおなじみの塔馬双太郎の学生時代の仲間に関連する殺人事件の物語。既に塔馬の友人が出てくる「南朝迷路」や「風俗史の問題」等は読んでいたので、気になる一冊だった。文春文庫の初版が1991年と結構前の作品で、中々本屋で売っている処を見かけなかったのだが、先日の出張帰りの梅田駅の本屋でようやく見つけ、買い求めた一冊。

 最初の被害者が殺され、さらに犯人ではないかと匂わせていた人物が殺害され、という形で物語を読ませてくれるのは、ストーリーテラーたる高橋の実力通りで、最後まで一気に読んでしまった。ラストに真犯人の遺書で謎が明らかにされるという展開も、「北斎殺人事件」他でお馴染みと言えばお馴染み。ただ、前半の塔馬の冴えが少しもの足りないかな?チョーサクも、長編ではちょと喋りすぎというか何というか。

 チョーサク、リサは、この物語でも塔馬の良き相棒として出てくるが、物語の中盤までは、不協和音といおうか、十数年ぶりに会った友人だからそうなのだろうが、やや感情移入しにくい感があった。それが、ラスト付近、文中のリサの台詞にもある、「チョーサクって・・・変わったわ」という辺りにはすっかり馴染みのキャラになっている。そういう感覚を醸し出すことができるのが見事だ。

 それから、「大事な記憶を覚えている限り、俺達は変わっちゃいない」というチョーサクの台詞。記憶シリーズで、記憶の不思議さ、曖昧さの物語を描いている高橋が、この物語で書きたかったことの一つが、この昔の記憶にまつわる、記憶を相対的に見て、それとその人自身との関わりを描く、というところなのだろう。

 物語は悲劇なために、一連の浮世絵三部作にも似た寂しげなラストだが、それでも友人達の思いが十数年の時を遡ってもう一度蘇るというか、暖かいものが残るところが良かった。
 
ラベル:高橋克彦
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2008年10月16日

ゲド戦記V「アースシーの風」


 ゲド戦記の1巻「影との戦い」を初めて読んだのは、たぶん二十歳頃。自分自身の虚栄が生み出した影を追いつめ、それを受け入れ、一つの存在として勝利するゲドの物語には、「老いを待たずして竜王と大賢人の称号を持つ男の若き日の話」という書き出しと相まって一気に引き込まれていった。

 そのイメージがあるものだから、四巻の「帰還」で全ての力を使い果たし、「弱き存在」のようになってしまったゲドを見るのは辛く、全編の重苦しい雰囲気と相まって、受け入れることができなかった。そのため、それ以降をずっと読んでいなかったのだが・・・外伝に興味ある話が載っているということは聞きかじっていたので、意を決して読んでみることにした。

 「ゲド戦記外伝(アースシーからの物語)」は、冒頭の「カワウソ」こそ、「帰還」のような重苦しい感じはあるものの、ロークに学院が出来上がった経緯を興味深く語ってくれた。秀逸なのはゲドの最初の師匠オジオンの若き頃(というより彼の師匠)を描いた「地の骨」と、大賢人としてのゲドのサブストーリー「湿原で」。これらは、物語の重さと語り口の妙がバランスよく、そしてアースシーの物語の変遷を予感・感じさせるに十分な話だった。そして5巻「アースシーの風(もう一つの風)」へとつながる「トンボ」。アースシーの「今の」世界観に引き込まれて、一気にこの5巻にまで手を伸ばした。

 この「アースシーの風」はこの「トンボ」のすぐ後、「帰還」の十年後くらいの物語だ。ゲドはもはや大賢人でもなく大魔法使いでもないが、それでも隠しきれない何かを持つ存在(されど辺境に住む老人)として描かれていく。物語の語り部はハンノキ・・・ある意味でゲドと対照的な、また同じような主人公だ。もう一人の主人公が、死の石垣を壊そうとしたクモをゲドとともに倒し、ハブナーの若き王となったレバンネン。

 「影との戦い」以降の3冊では魔法、すなわち(男の持つ)知力により、己とその影との統合を描き、世界を全たきものになそうとするという物語であったのに、その考えそのものが暗く混沌とした情念的な世界(それは太古の力、あるいはまじない女などとして表現される)を締め出し、世界を不完全にならしめていたというパラドックスを生みだしたということが明らかとなり、おそらく振り切った振り子が大きく戻るように四巻「帰還」が描かれ、そして、ようやく均衡点ともいうべきところへ、この5巻で達した、と感じる。

 訳者も後書きで述べているように、5巻では「ロークの学院に象徴される知の世界も、・・・かつて無いほど相対化され」、それは世界を構成する様々な要素の一つでしか過ぎなくなっている。その反対に、かつてはロークの学院には女性は入ることができなかったという世界を壊すかのように、ハンノキとユリの永遠の愛、またゲドを思うテナーの思い、レバンネンを思うセセラクの想いに光が当てられている。

 そして、永遠に固定した暗黒の死後の世界は、知(魔法)を知った西の地方の人々が欲望の果てに永遠の不死を求めたが為に生まれてしまったと描かれる。その境目を壊し、生と死が解け合うことで世界という円環がようやく閉じられた。そして竜は去り、人間は残された。竜が去った国に魔法はまだ残っているのだろうか?この光の国にはもはや不要なのかもしれないが。

 この長い冒険の物語の最後は、ゲドとテナーの穏やかな会話で幕を閉じる。もしかしたらこの安堵感は、ある程度齢を重ねないと分からないのかもしれない、と思う。
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2008年06月02日

親鸞の告白


 縄文時代からの原日本人、日本文化に対して、独自の思想体系を生み出してきた梅原氏の親鸞あるいは「歎異抄」に関する過去の著作や講演録をまとめたもの(小学館文庫)。書かれた時代も1984年〜2000年で、文庫化にあたり加筆修正されているようだが、全体としてややバラバラの感はある。されど、これまでほとんど名前しか知らなかった親鸞、浄土真宗、そして歎異抄について、梅原氏の視点で照らしだされた姿を見ることができて、色々と考えるところがあった。

 書の構成は、親鸞その人について、浄土真宗教団の発生と発展、歎異抄と蓮如、そして歎異抄について、という内容からなっている。教団については、人間関係がややこしくてなかなかすんなり頭の中に入ってこなかった。それはそれとして後半の蓮如、そして歎異抄から伺い知る親鸞の信仰(ただし、歎異抄によってのみ親鸞を理解するのは適切ではないと著者は語っている)が非常に面白かった。

 歎異抄も梅原版現代語訳が付いているので読みやすく、突き抜けたような内容に驚いた。特に第九条。著者の唯円が親鸞に、「念仏を唱えていても楽しくない。楽しく暮らせるはずの極楽浄土にも早く行きたいという気持ちにならない。これはどういうことでしょう。」と問いかけると、親鸞が「自分もそうだ。」と応えたというではないか。浄土真宗の開祖とされる親鸞が、だ。そしてこう応える。「喜ばないから、かえってわれらの極楽往生はまちがいないと思わなければなりません」(梅原訳より)。著者も指摘するおそるべきパラドックスだ。

 他にも、往生するために善行を積むということは決して極楽浄土に往生するためにならない、という文言がそこかしこに出てくる。「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。」という有名な、激烈なパラドックスの一節がそれを端的に言い表している。

 この非道徳的な教えは一体なんだろう、と思う。そして著者の指摘にハッと気が付く。「信仰(あるいは救い)は道徳ではない」と。

 西洋はユダヤ教、キリスト教に代表される一神教であるのに対し、東洋(日本)は八百万の神で多神教とはよく言われるが、この著作から思われる処は、浄土真宗もまた、阿弥陀仏という唯一絶対神を中心とした信仰である、ということだ。もちろんそれは罰する神、道徳的な神ではなく、自分の中の悪、煩悩に悩み迷う無明の徒を救う神(仏)だ。この点で、親鸞の考えは、イエスが語った山上の垂訓「幸いなるかな 心貧しきもの。天国は彼等のものなればなり。」と見事に重なってくる。まさに唯円が遺した親鸞の信仰はイエスのそれと同じと思えてならない。救われるのは立派な人、裕福な人ではなく、自分の業の深さ・心の弱さに悩み、右往左往している凡夫なのだと。そのために仏(神)はいるのだと。こういう弱き者を肯定する信仰というものが日本にあったということに驚いた。弱き我々を救うのは唯一超絶的な存在しかないとすることで、我々の弱さ、無力さが肯定的価値観へと転換される、という不思議さ。

 こう解釈すると、自らの弱さを悔いている徒への救いは道づけられるのだが、残るのが自ら悪へと志向する徒がどうなるのか、だ。僕がかつてよく読んでいたキリスト教作家遠藤周作さんが晩年の著作で立ち向かっていたのがこの悪の問題だ。本書でも、著者が「親鸞の深い宗教的体験を感じさせる悪」と表現している。そして著者によれば、この奥深い悪を内包した人間も(こそ?)救われるというのが親鸞の教えであるようだ。それは遠藤氏が最後にたどり着いた母なる河と同じ、全てを委ねるところに、在るのだろう。

 余談ながら、仏教の場合、聖人という存在が信者にとって仏(阿弥陀仏)と同一視されるレベルなのか、それともある理想の信者であるのか、よくわからない。されど、あくまで救いをもたらすのは阿弥陀仏の発願であるとすれば、やはり絶対神は阿弥陀仏のみ。親鸞も理想の信徒という姿であるのなら、同じような思想を説いて神格化されたイエス、という存在の不思議さをあらためて思う。
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2008年01月16日

ゴッホ殺人事件(上、下)

 久しぶりに読んだ高橋克彦氏の新作(僕にとっての・・・だけど)。

 例によって引き込まれる展開。上巻を読み終わって待ちきれずに下巻へ突入。既にぱらぱら立ち読みしていて知っていたのだが、浮世絵三部作などに登場する美術探偵(?)塔馬が登場してくるところなど、わかっていても「おぉ〜」と一人感激してしまった。電話の直後の由利子の独白など、よくある台詞なのに、のせられてしまう・・・キャラが立っているが故の強さだ。

 由利子と塔馬、アジム、杉原で、オランダ、フランス、日本と舞台を変える殺人事件の展開を最後まで勢いよく読ませる高橋節は健在、というところでファンとしては満足満足。惜しむらくは、犯人候補の主要登場人物が一人最後に残ってしまう点、そして由利子のその後があまり明るく(というかはっきりと)描かれなかった点。このため、それまでの爽快感に比べ、やや寂しい読後感だった。

 物語の横糸ととなる、画家ゴッホの自殺にまつわる謎に関しては、ほとんど知識を持ち合わせていなかったので、前半のマーゴの論文の形を借りた筆者の主張を、なるほど、と読んだ。生前に1枚しか絵が売れなかったなども知らなかったので、僕にとっては、自殺よりもその方が本当に謎に思えるし、兄弟の確執で埋もれていたのだとすれば、恐ろしいことだ。ラストの、マーゴ説を否定する別論立ては、死していく兄、そう仕向けてしまったことを悔やむ弟、と、そうあって欲しいという作者の思いか。
ラベル:高橋克彦
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2007年12月20日

謎解き広重「江戸百」

 江戸時代の浮世絵師、初代安藤広重・・・最近は歌川派の絵師ということで歌川広重と言うらしいが・・・の晩年の大作「名所江戸百景」(略して江戸百)の、場所の選択性、暗喩としての描かれているものの意味を推測したもの。

 僕は浮世絵好きというわけではないのだが、これまで幾つかの作品についてエントリをアップしたこともある作家高橋克彦氏の出世作が浮世絵にまつわるものであったり、また一方、江戸後期を舞台に剣客商売、鬼平などのシリーズものを書き続けた池波正太郎氏を読み進めていることもあって江戸時代はどういう様相だったのかに興味があり、その時代の風物が活写されている浮世絵に興味を持った次第。この本は、新書サイズながら江戸百の半数近くを1ページ分の図版として、また縮刷ではあるが江戸百の全てを、いずれもカラーで掲載しているので、江戸時代の「風景」を概観できそうだと思って購入した。

 果たして、そういう購入当初の目的には充分適うものだった。

 その一方、タイトルにある謎解きという意味では・・・それを謎と呼ぶべきかどうか、いささか異論を持たざるを得ないが、著者は、広重(とその版元)が、何故その場所を江戸百景に描き、絵にある事物を描いたのか、という点を謎と呼び、推測している。いうなれば、著者なりの解釈と言おうか。そして、その前提としたのが、「絵の制作とできごとが対応している」ということ、そして安政の江戸地震からの復興を謳いあげるためのもの、ということだ。

 しかし、全体としてみたとき、著者のいうような何らかの情報をコードとして密やかに仕込まれているとまで言うのはいささかオーバーに過ぎないかと思える。浮世絵の発禁も当時別に珍しいことではなく、それを恐れてあえて仲間(それは狂歌仲間か?)にのみ分かるような情報を仕込んでいる、という前提に必然性が無いように思うのだ。

 逆に、そういう目で見なくとも、例えば「浅草田圃酉の町詣」に書かれている白猫はあからさまに描かれない遊女をシンボライズしたモノだ、という点は当時の風俗を踏まえた解釈で分かりやすい。その他、「玉川堤の花」が新名所誕生のキャンペーン用であった、とか「日本橋通一丁目略図」の雑踏が当時広まり始めたかっぽれだ、というような(謎解きの)主張も、江戸百が描かれた時代背景あるいは、情報媒体としての浮世絵の意義を推測、あるいは示すモノとして非常に面白いし、場所だけでなく、場所性(その時代の雰囲気をも含む)が取り込まれているところに、単なる絵画ではない浮世絵名所絵の面白さ、奥深さがある、ということは充分伝わってくる。確かに謎はあるのだが、コードとして仕込まれたものというよりは、当時は皆知っていた時代風俗・状況を知らない我々だからこそ謎に見えるのではないかと思う。

 それにしても。江戸時代というと、明治以前の、いわゆる歴史の世界という感があり、日本を江戸以前と明治以降という形で分けてしまいがちなのだが、この江戸百が描かれたのは安政三年(1856年)から安政六年(1859年)。一方、江戸時代の終焉となる大政奉還はそのわずか10年ほど後の1867年だ。江戸時代から明治へ・・・人は変われど日本の風景はその後しばらくは江戸の面影を残していたのだろう、と当たり前のことに思いを馳せながら、江戸百を眺めた。そして、その大胆な構図、写実的な描写の迫力に目を奪われた。
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2007年09月28日

生物と無生物のあいだ

 講談社現代新書の一冊。分子生物学者の手による表題のような新書だけに、分子生物学から見た生物の定義、というような解説本かと思っていたが、そうではなく、ストーリーテリングの上手い語り口で読ませる書物だった。

 冒頭の野口英世の日米での評価の差異から始まって、遺伝子がDNAであることを突き止めた早すぎた才能エイブリー、DNAの複製装置の原理を発明した奇妙な科学者マリスらの足跡を追い、誰がDNAの二重らせん構造を「発見した」かの科学史ミステリーへと、滑らかな、引き込むような文体で読ませてくれるが、僕に取っての白眉の章はその後の第9章「動的平衡とは何か」だった。

 この章で、著者はルドルフ・シェーンハイマーの、新しく、革新的で、しかし忘れられつつある生命観を述べ、単なる自己複製するシステムを生命とする定義を、それだけでは本質的ではないと否定する。そして、シェーンハイマーの生命観を拡張し、「生命とは動的平衡にある流れである」という定義づける。

 髪の毛や爪、皮膚などだけでなく、生命(我々の身体)を構成するあらゆる部分(分子)は、常に外部から食物として取り込まれる新しい分子によって置き換えられているそうである。このことから、決して静的ではなく、常に入れ替わりつつ秩序を保つ動的な「平衡」状態こそが生命である、という。非常に面白い生命観である。

 この動的平衡状態の流れを説明するもう一つのセンテンスを著者は示している。「秩序は守られるために絶え間なく壊されなければならない。」がそれである。そのままではなぜ秩序は守られないか?それは時間の流れが非可逆的であり、万物はおしなべてエントロピーが増大する方向つまり無秩序な(ランダムな)方向へと変化していくからである。その中で、生命だけが、時の流れに抗おうとして、秩序を守る、つまりエントロピーを増大させず、一定の形態をとり続けるために、絶え間なく秩序を構成している要素を壊し、新しくしていく。この必死の営みが、我々をして存在せしめている。大きな時の流れの中ではわずか一瞬の存在でしかないのに、それに逆らって存在しようとしている・・・そんな切なさが、生命の持つ美しさなのかもしれない。

 それにしても、そうして常に更新され続ける肉体の中に宿っている我々の意識、記憶というものは一体何なんだろうか、と思う。それもまた、時の流れに抗う「秩序」の一つ、なのだろうか。

 後半の著者の研究に関する章では、動的平衡系の許容性として、欠陥を作るべく遺伝子操作したDNAを組み込んだ卵から産まれたマウスは、マウスとして産まれ出るまでにその欠陥を補償していく、その一方で、系が完成した後に人為的に加えて欠陥に対しては、それを補うことができない、という実験事実を紹介している。この部分のより本質的なところは、生命は時間の中に存在し、一度経過したプロセスは二度とやり直すことができないという一回性のものとして生命がある、ということだ。動的平衡にある流れとしての生命とは、常に過ぎていく時間、一期一会・・・そういった刹那を映し出す鏡だ。

 この動的平衡という生命観は、僕には非常によく「腑に落ちる」、感覚として理解できるものだったが、本屋でこの本を買って読もうと決めたのは、その部分を立ち読みしたから、ではない。それは、エピローグに書いてある著者のエピソードを読んだからだ。僕は本を買う前などにあとがきを読むことが多いのだが、この本のあとがきで著者は少年時代の二つの体験を綴っている。一つは、アオスジアゲハの蛹を捕ってきて虫かごに入れ、物置にしまっておいて、半年も忘れてしまったこと。恐る恐る確かめたカゴの中では、羽化したアオスジアゲハは生きているときと同じ美しい文様を見せたまま、乾燥していた。もう一つは草むらで拾ったトカゲの卵。羽化が待ちきれず、卵の中の様子を見るために、殻の一部を切り取って覗き込むと、卵黄をお腹に抱いた小さなトカゲがいた。「次の瞬間、私は見てはいけないものを見てしまったような気がして、すぐにふたを閉じようとした。」(エピローグより)。少年の感覚はまさに正しく、外気に触れたトカゲの赤ちゃんは徐々に腐って身体が溶けていったという。この好奇心と表裏一体の取り返しのつかないことをしたという罪の意識(苦い思い)の告白が、この本を買おうと決めたトリガだった。
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2006年01月10日

あの戦争は何だったのか−大人のための歴史教科書−

 最近、本屋で新書のコーナーで立ち読みすることが多い。時事問題とか世相とか、そういうものについて書かれた書籍であふれているが、たぶんそういうところから今の世を理解するための情報あるいは指針?処世術?を得ようと無意識に思っているからではないかと思う。平積みされている本を見ると、次から次へ買いたくなってしまう衝動に駆られてしまう。どうも最近新書ブームがあるようで、僕も乗せられているのかもしれないが・・・そういう中の一冊。

 考えてみれば、昭和の太平洋戦争を論じた本は、実は全く読んだことがないという体たらく。去年は中韓反日デモや今も尾を引く靖国問題などがあり、戦後60年という節目にもあって、この戦争に関する話題が・・・うーん国内で盛り上がっていたろうか?

 それはともかく、いわゆる自虐史観や、その反動で極端に振れすぎているとしか思えない「つくる会」系の資料からは一線を引いた論が読みたいと思っていて、この本を手に取ってみた。

 やはり新書、といおうか、ボリューム的に緻密さにやや欠ける面があるという印象だが、おおむね太平洋戦争に至る流れ、敗戦となる流れとしての著者の主張は理解できた。つまり、太平洋戦争の開戦と敗戦を通じて、なぜ無謀な日米戦が行われたか、それを引き起こした日本人の国民性とは何か、という切り口で論じている。その一方、太平洋戦争の背景としてある日中戦争(あるいはその前後の国際情勢)については、「陸軍が強引似始めた軍事行動」的記述しかなく、本書の範囲外なのかもしれないが、ややもの足り無さがある点は否めない。

 この一冊だけであの時代、あの戦争を把握できるわけもなく、他の書籍も読んでみたいと思うが、一つだけ、ひっかかることが心に残った。これは非常に短絡的な発想で幼稚だとは思うのだが、去る6月の参院での郵政民営化法案反対から9月の与党圧勝までの流れと、その後の政治状況に関してだ。

 著者の主張では、太平洋戦争開戦への一つの大きなポイントに二・二六事件を位置づけている。つまり、このクーデターは未遂に終わるが、軍の持つ暴力性を政治家に植え付け、軍主導の政治体制あるいは軍部統制派への権力集中の道を開いた。また偏狭な視野の持ち主やイエスマンで軍中枢が固められ、広い視野を持つ有能な人材を放逐することにもつながった。この辺り、、昨年の参院での郵政民営化反対という(一種の)クーデター以降の政局と良く似ている様な気がする。権力が集中し、見境がなくなっていく一つの雛形があるのかもしれない。

 著者が問う問題の一つは、大本営発表という嘘の情報を信じ込まされた国民が、実際には苦しい生活環境にある戦争末期に、それこそ一丸となって軍に協力したという点に日本人という国民性が現れているのではないか、という点だ。痛みを伴っても改革は断行すべきだ、と言われれば、その通りと思って痛みを甘受して指導者層に追従する今の庶民(?)とて同じように思えるのは気のせいだろうか。

 総括として、著者は戦争中の指導者層(軍部エリート層)を、その先見性の無さ、無戦略さ、無責任さ故に厳しく糾弾している(天皇については発言せざる存在だが反戦の思いが強かったという捉え方だ)。このエリート層が(対外的な状況はどうあれ)無謀な戦争を引き起こし、多数の兵士を悲惨な死に至らしめ、多くの国民を困窮の極みへと陥れたのであるならば、その責任はたとえ死しても問われなければならないだろう。少し飛躍するが、そのエリート層が深く関与し、また一つの体制維持メカニズムとして機能していたのが靖国神社だろう。この点で、小泉首相の年頭の「理解できない」発言を批判する論者に対して中韓の反日イズムに屈するのか的批判はどうもポイントがずれているように思える。

靖国神社 千鳥が淵

 そう思いながら、先日の東京出張の折り、靖国神社と千鳥が淵戦没者墓苑を訪れた。門に金々の菊の紋章が輝く靖国神社と比べ、千鳥が淵戦没者墓苑のなんと寂しげなことか。
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2005年11月07日

「キリストの誕生」遠藤周作

キリストの誕生(遠藤周作、新潮文庫)

本棚を整理していて、昔買った文庫本を久しぶりに引っぱり出した中に、遠藤周作氏のこの本があった。氏の小説やエッセイは高校〜大学にかけてよく読んでいた。始めは狐裏庵銘のエッセイから入ったが、やがて純小説に読み進み、出会ったのがこの作品の前作にあたる「イエスの生涯」だった。以来、氏のイエス・キリスト観を織り込んだエッセイや小説を良く読んだが、当時、何度も再読したのは、やはり「イエスの生涯」であり「死海のほとり」だった。それは、それらが最も色濃く「永遠の同伴者イエス」を描いていたからであるが、高校から大学にかけての心の揺れ動きの中で、そういうものを求めていたからかもしれない。

「キリストの誕生」は「イエスの生涯」の続編であり、この2冊が一体となって、氏のイエス観が環を閉じるのだが、当時の僕は、「キリストの誕生」をあまり良く理解できなかった。同じ頃に買ったにも関わらず、この2冊の文庫本は表紙のすり切れ方が全く違っている。それだけ「イエスの生涯」をむさぼるように繰り返し読んでいたのであり、当時の僕にはイエスそのものを描いた「イエスの生涯」を感じることはできても、弟子(使徒)のその後を描いた「キリストの誕生」には感情移入できなかったのだと思う。

およそ10年ぶりに「イエスの生涯」そして「キリストの誕生」を読んだ。「イエスの生涯」には当時ほどは瑞々しい感動はなかったけれど、それは今の僕がそれなりに充足しているからかもしれない。一方の「キリストの誕生」は、これまでになく面白く読めた。

今日の聖書考古学は当時よりも進歩して、おそらく氏の解釈は既に色あせたものかもしれないが、聖書という原典に準拠する氏の解釈を改めて興味深く読んだ。

 氏のイエス観は「現実には無力だった人」、「結局は何もできなかった人」であり、それ故に「愛そのもの」であった。その生涯を克明に表したのが「イエスの生涯」であるが、エルサレムの外れで神殿警備隊によって拘束され、ユダヤ教の衆議会、ユダヤ知事、ガリラヤ分国王にたらい回しにされた挙げ句、処刑された無力な男が、厳格な一神教の風土のあったユダヤにおいてなぜキリストとして神格化されたのか、というキリスト教誕生の謎に対する挑戦が本書「キリストの誕生」である。

キリスト教誕生にまつわる興味深い点を遠藤氏の論点に沿って幾つか上げてみると、
  • ユダヤ教はヤハウェを絶対神とする厳格な一神教で、(イエスがその価値は愛よりは高くないとした)律法と神殿はユダヤ教徒から絶対視されていた。
  • 十字架による磔刑は、当時のローマが政治犯を処刑するための刑罰で、ユダヤ教の異端者に対するそれではない。
  • イエスのような神の言葉を伝える預言者は、当時多数存在し、また宗教的指導者として組織を率いる者もいたが、死後、その人自身が神格化された者は、たとえ過去にさかのぼっても(モーゼやダビデがそうならなかったごとく)イエス以外にはいない(一神教の風土では、個人が神格化されることはありえない)。
  • ユダヤ教では木にかけられた者は神に呪われる、とされていた。
  • イエスの神格化は、生前のイエスを見知っていた人々が多く生き残っていたイエスの死後10年程度で既に始まっていた。
  • イエスは、その神格化により理想の人間、あるいは理想の信者としてではなく、信仰の対象そのものとされた。

イエスの神格化とキリスト教の誕生を考える上で、ポーロの回心・ユダヤ教圏外への布教と西暦70年ごろのローマ軍によるエルサレム陥落が非常に大きな意味を持っているだろう。ユダヤ教の律法から見るとイエスの生涯は冒涜的であり、ユダヤ教徒に受け入れられる余地はほとんど無いと思える上に、エルサレム陥落でエルサレムに居たと思われるユダヤ教により近い原始キリスト教団はほぼ崩壊した一方、ポーロ神学がエルサレム無き時代のキリスト教をはぐくみ、世界に広めたと考えられるからだ。

しかしそこにおいても、ポーロが迫害を受けつつローマ領内を布教したことは明らかであり、彼自身がそれまで厳格なユダヤ教とで厳守してきた律法を捨てて、何故それほどまでに生前会ったことすらないイエスを「神の子」として信じ、命を懸けて布教したのか、という点でやはりイエスの神格化という問題に立ち返らなければならない。

何がイエスをして神の子ならしめたのか?言い換えれば、何が弟子・信者をして殉教に至らしめるほどの信仰心を持たせたのか?イエスが布教を行い、処刑され、弟子達が教団を組織し活動を行った50年くらいのわずかな間に一体何があったのだろうか。これは、キリスト教という宗教の枠組みを離れても、人の心の問題として、あるいは人類の歴史の問題として、非常に興味ある問いだと思う。文字によってその時代をたどることのできる歴史書の残る時代、場所において、まさに新しい宗教が誕生しているのだから。

「イエスの生涯」がイエス本人の足跡を直接辿ろうとした書物なら、本書「キリストの誕生」はイエスの周りにいた弟子達の行動の軌跡から、イエスを捉えようとした試みであるといえる。両作品ともにイエスという男がキリストになった謎を追いかけているが、その向こうに氏の信じるイエスの姿、次のように語るイエスの姿を浮かび上がらせている。
重荷を負うている 全ての人よ
来なさい わたしのもとに
休ませてあげる そのあなたをマタイによる福音書11-28

問いに対する答えは示されていない。それは問い続けるものであり、答えは永遠に得られないのだろう。
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2005年08月18日

写楽殺人事件

syaraku.jpg
写楽殺人事件(高橋克彦、講談社文庫)


昭和58年江戸川乱歩賞受賞作品。今から20年余前の高橋克彦氏最初期作品だが、当然ながら、そんな時の流れを全く感じさせない傑作だった。

高橋克彦氏の著作は蝦夷の時代物総門谷シリーズ、竜の棺シリーズを読んでいたが、推理物には手を出していなかった。それが読む気になったのは、総門谷Rの解説で明石散人氏が(総門谷Rの解説だというのに)この本を絶賛し、かつ読み応えを説いていたからだ。果たして、読後感の充実した作品だった。

この小説の前半では、高橋氏の写楽論が主人公・津田の探求過程を借りて展開される。写楽の正体について、最近の研究成果がどうなっているのかは知らない。明石散人氏が改めて提唱した斉藤十郎兵衛説が決定打であるようである。高橋克彦氏の論は、それとは異なり、秋田蘭画絵師の中にいるという。それは、写楽が活躍した江戸自体の文化的背景に根ざす論であり、「東州斎写楽はもういない」を書いた後の明石散人氏をして、「高橋説が揺るぎないもののように思えて」しまうものであった。そして氏は、それを「写楽を様式として捉えた」からであると分析する。

この、解説を読むだけではなかなか理解できなかった明石氏の「(高橋克彦氏は)写楽の出現を様式として捕らえた」というくだりが、それが本書を読んでようやく実感として理解できた。それは、「竜の棺」では明示的に、「炎立つ」などの純時代小説では暗示的に、高橋氏の作品の中で展開される共通の方法論に由来する。つまり、正史には描かれない歴史の影、権力者に封印された謎を、今に残る一見無関係のような状況証拠を緻密に組み立てて、明らかにするという作者独自の手法に則って時代情勢(と権力闘争)の結果として写楽を捕らえた、ということであった。

この点は、実は高橋氏の作品を、本作しか読んでいなければ、わかりにくい点かもしれない。主人公の研究者津田が写楽の謎を解き明かしていく過程は、「竜の棺」で九鬼が「竜」の謎を解いていくプロセスそのものである。まさにこの点でもまた、この小説は推理小説なのである。

逆に、様式としての写楽という理解ができなければ、写楽=近松昌栄説を、最後に全部嘘だったという種明かしをされた時点で、肩透かしを食らったような気分になるだろう。しかし、国府の独白にあるように、秋田蘭画絵師説は近松昌栄でなくとも成立するのであり、東北の一つの藩が江戸にかくも大きな文化的影響を与えていたという、知られざる真実をこそ見出さねばならない。

Googleで検索すると、推理部分のトリックが弱い、構成が尻つぼみ、という批評があった。確かに、殺人事件に関する展開については、弱さが無いことも無いと思う(殺された国府の手記で犯人が明かされるなど)。

しかしながら、上に書いた様式としての写楽論に加え、作中に込められた作者の浮世絵に対する愛情と、その裏返しとして描かれる津田が感じた哀しみが、それらを補って余りある作品にしていると思う。そう、殺人の陰謀は暴かれ、事件は幕を閉じるのだが、物語は謎が明かされるに連れて悲しみの色を濃くしていく、寂しい物語だ。最後に明かされる津田と冴子の結婚が、ただ一つの救いである。
ラベル:高橋克彦
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2005年03月29日

アバルト - カルロ・アバルトの生涯と作品

アバルトの生涯とクルマ
アバルト - カルロ・アバルトの生涯と作品


僕の本家のwebサイトのメインコンテンツはアバルト(Abarth & C.)という1960年代にイタリアあったスポーツカーのマニュファクチャラ(チューナー)を紹介すること。だから、僕のサイトに「アバルト」というキーワードで検索して来られる方が多い。

逆に、自分のサイトがどういう検索語句でヒットするのか、ということにも興味があって、たまに試してみたりする。そういうときに見つけたのがこの本、「アバルト - カルロ・アバルトの生涯と作品」だった。

原著は、かつてアバルトの前進のチシタリア時代からカルロ・アバルトの元で働いていたLuciano Greggio氏が書いた"Abarth: The Man, the Machines"(Motorbooks Intl刊)。コチラの方は前から目にしていて、イタリア語と英語の併記なので買いたいな、と思いながら、やはり洋書ということでためらいがあって、買わず仕舞いだった。

その全訳が、ネコ・パブリッシュから刊行された、この「アバルト - カルロ・アバルトの生涯と作品」。12,600円(税込み)とイイ値段するのだが、ココで買っておかなければ多分手に入らないということで、amazonで即注文。

abarthBook2.jpg中身は予想通り、出生から、オートバイレーサ時代、ポルシェの代理人時代など、一般にはあまり語られることのないカルロ・アバルトの人生の前半にも光を当てた貴重なモノ。若き日のアバルトの写真を初めて見た。

もちろん、チシタリアのテクニカル・ディレクターに就任してからのレース活動、そして自らアバルト&C.を興したあとの困難と栄光についても、貴重な写真を使って紹介してくれている。まさにアバルトの息吹を感じることができる・・・そんな本だと思う。巻末のレース記録や国際記録の一覧も嬉しい。

貴重な写真と言えば、イタリアでカルロ・アバルトがホンダのS600をインプレしている写真も載っている。アバルトがエスロクのマフラーを作っていた、という噂を聞いたことが在ったけれど、東洋の島国の精巧なDOHCにまでも興味を持っていたんだなあ、と感慨深い。

ということで、非常に嬉しい本であったのだけど・・・最初に注文した時に届いた本は、途中が落丁していた。(出版元はネコでも)製本はイタリアらしいから品質が甘いのか?(涙)即行で返品手続きして、一週間ほどで新しい品物が届いて、こちらは大丈夫だった。1万円以上する本なんだから、しっかり作り込みしてくれよ〜と思った次第。購入される方、念のため、ご注意を。
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2005年02月19日

天を衝く(1)〜(3)


天を衝く (3)天を衝く(1〜3)(高橋克彦、講談社文庫)


豊臣秀吉が天下統一を成し遂げるための最後の大戦さが、この物語の主人公、九戸政実率いる九戸党との決戦だった。九戸城に籠城した九戸党はわずか5000人。総大将を関白秀次とし、総指揮官に蒲生氏郷、総奉行に秀吉の腹心浅野長政、徳川家康の代理井伊直政という上方軍の歴戦の将らの率いる豊臣軍は総勢6万5千人。これだけの戦力の差がありながら、城を落とすことができなかった豊臣軍は、卑怯にもだまし討ちの策を取り、難攻不落の九戸城も遂に落城した・・・。

九戸政実がなぜ太閤秀吉に反旗を翻したのか、勝てぬとわかっている戦さを何故避けることをしなかったのか、そのことを奈良時代から続く蝦夷の熱き心で語ったのが、本作となる。また、同じ高橋克彦氏の著作となる「火怨」、「炎立つ」と合わせて"陸奥三部作"と称されることもあるが、全ての基本構図は同じ、中央からの理不尽な征服に対する抵抗(そして敗残)である。

高橋克彦氏の手によるだけに熱い物語だ。主人公、九戸政実は武勇に優れ、義を重んじ、戦略に優れた武将として描かれる。一度として負け戦さをしたことがない武将なのである。最終的に政実に立ちはだかるのは、織田信長無き後に天下取りを果たさんとした豊臣秀吉。圧倒的な兵力で小田原の北条氏を倒した後、伊達政宗の牽制という意味も含めて奥州征伐軍を派遣する。

物語には九戸政実の属する南部の跡目対決という状況も絡んでくる。南部宗家信直が豊臣軍に援助を要請して、宗家に反抗する九戸党を殲滅しようとしたからである。秀吉は、武力で奪い取ることもなく日本全土の支配者を宣言し、陸奥の地をも勝手に支配しようとしている。漁夫の利を得、損得でのし上がってきた秀吉の理不尽さに、蝦夷である九戸党の闘いがなされるのである。

文庫版の第3巻で豊臣軍との攻防が描かれるが、政実に劣らず義憤を感じ熱くたぎる生を全うする武将が多く出てくるので、その意味でも最も圧倒的である。対する豊臣軍の武将は、偽りの和議を申し入れるというだまし討ちのような卑怯な手で難攻不落な九戸城を開城させるなど義を重んじる心は無く、その対比は九戸党の持つ蝦夷の心意気を我々に一層心地よく感じさせ、そして九戸政実という正史(勝者が書き残した歴史)に埋もれていった傑物の存在を力強く伝えてくる。

というように面白さに文句はないのだが・・・「火怨」や「炎立つ」と比べると、やや読み進めさせる強さが弱いように思う。何故か、と考えてみると、一つに敵方に魅力的な人物がいないことが有るだろう。「火怨」の坂上田村麻呂、「炎立つ」の源義家のように、感情移入できる敵方が本作にはいない。そのためなのか、特に中盤で、何故政実が南部の棟梁の地位を奪わなかったという点に(南部藩を護るためであると分かっていても)非常にもどかしさを感じてしまう。それは史実に基づく小説であるが故かもしれないが、政実が戦略に長けた優れた武将であると描かれるほど、ではなぜ南部宗家とならなかったのかというジレンマを感じてしまった。

そういう意味で、第2巻まではやや読み進みが止まるところもあるのだが、既に述べたように、豊臣軍との衝突もやむなし、というより豊臣軍を引っぱり出すことで様々な武将や兵が蝦夷の意地を見せた第3巻は、前記2作に勝るとも劣らない躍動感と、心を揺さぶられる思いを存分に味わうことができる。それはまた、生を全うすることでしか蝦夷の意地を貫くことができなかった武将達の哀しさを感じることでもある。

九戸城は落城した後、宗家信直が居城を移した程の城であり、それまでの山城から平野に築かれた平城の見本とも言える城であったそうだ。その城跡は国の史跡に指定されている。詳しくは岩手県二戸市のwebサイト内の"にのへの観光"のリンク先にある九戸城のページ九戸政実に関するページ二戸市観光協会のwebサイト内の九戸城跡のページなど。

追記(2005年2月21日)
ラベル:高橋克彦
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2004年12月31日

風の陣 [大望篇]


風の陣[大望篇]風の陣 [大望篇] (高橋克彦、PHP文庫)


蝦夷出身でありながら、大和朝廷において異例の出世を遂げた男、牡鹿嶋足の生き様を描く「風の陣」の第2作目(参考までに、1作目[立志篇]短評へのリンク)。[立志篇]において藤原仲麻呂の朝廷での支配を決定づけた"橘奈良麻呂の乱(詳しくは「よろパラ〜文学歴史の10〜日本史用語の基礎知識」を参照)"以降の物語である。

物語はこれまで同様、奈良の都で展開する。藤原仲麻呂は恵美押勝と名を改め、皇族との強固な結び付けで専制政治を引いて行くが、彼の傀儡である淳仁天皇と先帝である孝謙上皇との不仲、孝謙上皇とその寵愛を受ける怪僧道鏡に実権が移るに連れ、体制の崩壊を焦り軍事クーデターを企てようとして失敗、逆に近江の地で斬殺される"恵美押勝の乱(参考:前記サイトの関連ページ)"の終焉までを描く。

この物語も高橋克彦氏の同様の他の著作(「炎立つ」、「天を衝く」等々)同様、蝦夷の心を持つ若者を主人公に据えているが、他と異なっているのは、牡鹿嶋足が自らの信義に沿って行動するとき、それが朝廷のためには為っても蝦夷のためにならない、という構図である。すなわち、彼は内裏に仕えており、上司は武人として彼が尊敬やまない坂上苅田麻呂であるが、その職を忠実に貫こうとすると、それが朝廷の蝦夷支配を肯定する方向に必然的になってしまうのである。このことが根本原因となり、蝦夷を影で支える物部一族の策士・物部天鈴と嶋足の仲違いがしばしば描かれている(というより、嶋足が天鈴に一方的に"蝦夷の心を試され"、誹謗されるパターンが多い)。もちろん、それは天鈴が嶋足に自分たちの夢をかけているからこそ、であるが。

他の物語の主人公は、己の信義と蝦夷の幸いとが一直線に結びついていた。従って迷うことなく自分に忠実に生き、そして死んでいくことができた。嶋足は、故に不幸な運命の主人公であると思う。彼の目的は蝦夷を、陸奥を朝廷から護るためだが、そのために内裏をうまく利用するということが、時として彼自身の武人としての信義を否定せざるを得ない役回りであるのだから。その不幸は、彼が遂に陸奥守として赴任できなかったという避けがたい物語の結末を想起すれば、一層際立つことになる。例えば「火怨」で、アテルイが、武士としての道を外してまでして蝦夷を勝利に導くことは蝦夷の死を意味する、と断言することと非常に対照的だ。それ故に、この「風の陣」は、他の陸奥シリーズとは異なる面白さがあると思う。

この[大望篇]のラストで、"恵美押勝の乱"平定に功を挙げた嶋足は十一階位という途方もない階位の引き上げにより従四位下という地位を遂に手に入れる。その一方、内裏のあまりに恣意的な政治を見せつけられるや、道鏡の追い落としにしくじって落胆している天鈴に、
「今日から俺は蝦夷に戻る。内裏にはもはや忠誠心などない。この地位を上手く用いていく」
と告げ、天鈴を驚喜させる。この宣言は、内裏を、というより坂上苅田麻呂に対する武士としての忠義の心を殺し、蝦夷のために己が生をかけていく、という意味にも取ることができる。であるなら、彼の武士としての信義と蝦夷としての信義が衝突する場合、彼は一方の自分を殺すことになる。

嶋足の妻となる鬼道の才を持つ女性・益女が観た嶋足の先行きは、泣きながら人を殺めるのだという。それもまた、彼の武士としての信義と蝦夷としての信義の分裂を示唆しているのではないか。

最終巻[天命篇]が待ち遠しい。

余談になるが、本作では、「火怨」での重要な登場人物が二人登場する。一人は伊治鮮麻呂であり、18才の青年である。もう一人が、アテルイ宿命の相手、坂上田村麻呂であるが、まだ7才の少年である。嶋足、そして天鈴の夢が潰えた後に語られる彼らの物語をもう一度読みたくなってしまう。

追記(2005年2月7日)
ラベル:高橋克彦
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2004年08月05日

機動戦士ガンダム THE ORIGIN 7 -ジャブロー編・前-


ガンダム7機動戦士ガンダムTHE ORIGIN (7) -ジャブロー編・前- (安彦良和、角川コミックス)


物語は「哀・戦士」篇の中盤へ。この巻は前半こそミライさんの艶姿(^^;)やマチルダさんの大人の女性、またその中の純粋な心の魅力、など華やかな印象を受けるが、ハモンさんの仇討ち以降は暗い、というより重い。

マチルダさんといいハモンさんといい、アニメ版よりも描き込みが多く、魅力をより感じさせる。ハモンさんの仇討ちはアニメ版とはやや設定が異なるが、そのオリジナル・エピソードが熱い。

そして、あのルウム戦役で名を挙げた黒い三連星登場。映画版では短縮されてしまった展開がTV版通り、順に進むようで、まずはマッシュを討つが、その代償はあまりに大きいマチルダさんの戦死・・・。

アムロがマチルダさんの死を感じるシーンは映画版の表現と同じだが、その"気を感じる"時のアニメ版に見られたスパークは描かれず、表現法が変わっている。より一層、空間を伝わる気を感じる、という描き方をしているように思う。

この巻は割とアニメ版と違う描写が多くて興味深い。黒い三連星の襲撃では、コアブースターが出てこなくて、セイラさんの「私が上手にできないばかりに・・・」という台詞がカットされている。ア・バオア・クーではコアブースター(Gアーマー)で出撃しなければならないわけで、今後セイラさんがどのように戦場に出る展開になるのか注目。

アニメ版ではほとんど語られなかったルウム戦役での描写も面白い。旧ザクを駆る黒い三連星だ。シャアが乗っていた旧ザクには角がついていたのかな?

カイ、ハヤトという脇役もアニメ版とやや性格付けが異なるように思うが、今回、カイはなかなか良い役回りだった。リュウが特攻した後、皆その衝撃を受け止めることができないでいる中で、アムロとハヤトの諍いが始まり、それを止めるときの
「ほうら、チビどもまで泣いちまった。みんな悲しいんだ。それをよけいに悲しませるようなことは、よせよ、な・・・」
という台詞が印象的だ。

それにしても、安彦良和氏の描き方、というのはアニメータだな、と思う。集中線とかを多用して勢いを感じさせる、ということをほとんどしない。そのかわり、原画の1枚1枚のように、静止画を何枚も並べて動きを見せることが多い。ただ、やはり黒い三連星の襲撃シーンは、ドムの動きを感じることが難しく、ちょっと残念だ。この点はアニメ版の方が優れている(動きがあるのだから当たり前か)。もちろん、キャラ描写の上手さ、独特のメカの描き方などは、流石と唸るところ多し。
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2004年07月19日

風の陣 [立志篇]


風の陣立志篇
風の陣 [立志篇] (高橋克彦、PHP文庫)



蝦夷としては、朝廷で異例の出世を遂げた男、道嶋嶋足を軸に、蝦夷と朝廷の間のドラマを描く一作目。高橋克彦氏がこれまで描いてきた蝦夷の物語「炎立つ」、「火怨」よりもさらに前の時代の話だ。

「炎立つ」で安倍貞任の守護神として登場した蝦夷の英雄アテルイ、その彼の生き様を描いたのが「火怨」ならば、「火怨」中で、蝦夷を影で支える物部の頭領、物部天鈴をして、
「蝦夷にとっては口にするのも憚られる名となったが、いつかは分かる。あの男がなにをのぞみとしていたかがな。」
と言わしめた男、道嶋嶋足が本編の主人公となる。

時は、「火怨」の時代を遡ること約20年。道嶋嶋足23才、物部天鈴17才。嶋足に対して朝廷側のキーマンが、「火怨」でアテルイの宿敵となる坂上田村麻呂の父、坂上苅田麻呂である。この辺りの人物配置も、「火怨」既読の読者には、別れた登場人物に再会する思いがして堪らない。

物語は橘奈良麻呂の変という朝廷の権力闘争を軸に進む。従って、舞台は、これまでの作品と異なり、奈良の都で展開する。

主人公、道嶋嶋足は、まさに蝦夷の心意気を持つ主人公だが、「炎立つ」の藤原経清や「火怨」のアテルイとは、少し感じの異なるキャラクタだ。それは、物語上、どうしても彼が自発的にストーリーを組み立てるのではなく、坂上苅田麻呂や物部天鈴といった脇役に「振り回されて」しまう役どころであったから、かもしれない。作品中には、「火怨」の冒頭で衝撃的な事件を企てた伊治鮮麻呂も弱冠13才の若者として登場する。嶋足と鮮麻呂の2人を評して物部天鈴が
「おまえは上の者のために働く。鮮麻呂は下の者のために生きている。」
と語るが、まさに嶋足の性格づけを的確に表現しているように思う。

かといって、彼が回りに言われるがままの主体性無き人物というわけでは毛頭ない。嶋足は陸奥守となって陸奥に戻り、朝廷から陸奥を守ることを夢見ている若者だ。物語後半、嶋足は(蝦夷として、武士としての)筋を通すために、とてつもない出世を果たす機会を逸するが、そのことが逆に自分の望みを果たすために自分が何を成すべきかを思い知るという展開が面白い。それだけに、続編の「大望篇」がとても楽しみである。そして、にもかかわらず嶋足の夢が敗れ去るその物語にも興味がある。

なによりも、彼らのドラマが端緒となって、「火怨」そして「炎立つ」という東北叙事詩が展開される、その始まりの物語なのだ。正史に描かれないストーリーを想像力でもって読者に示してくれる作者の力量にあらためて感謝、である。

追記
ラベル:高橋克彦
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2004年04月15日

機動戦士ガンダムTHE ORIGIN 6 -ランバ・ラル編・後-


gundam6
機動戦士ガンダムTHE ORIGIN (6) -ランバ・ラル編・後- (安彦良和、角川コミックス)


四半世紀を経ても色あせないファースト・ガンダム。

僕にとって、リアルタイムでガンダムを見ていたのはF91まで。今でも観ようと思うのは、ファースト・ガンダムと言われる「一年戦争編」とその続編たる「逆襲のシャア編」のみ。

本作は、ホワイトベースを脱走したアムロが砂漠の町でランバ・ラルに出会うところから、ランバ・ラル戦死まで。

特に砂漠の町での邂逅とグフ撃沈のところはアニメ版の出来が秀逸なだけに、克明に覚えていて、カット割りや展開などのタイミングが脳内にあるので、初読のときは読むタイミングと脳内タイミングが合わなくて、ちょっと違和感。これは、これまでのこのシリーズにもあったこと、なのだが。

それでも読み込めば、安彦良和氏の絵の上手さもあり、引き込まれる。後半のモブシーンの書き込み量といったら、それはもう圧倒的。本当にこの人は絵が上手い。

それから、アニメ版では見えづらいキャラの性格的なものもよくわかるのが本作の特徴か。ひねくれもののアムロ、中間管理職的で胃が痛いブライト、優しげなミライ、かわいい女の子のフラウ、漢気のリュウ・・・アニメ版でもそういう性格付けがされているわけだが、安彦良和氏の手による微妙な表情の描き分けで、いっそう読み手にそれらが伝わってくる。

カイ、ハヤトらがどう描かれていくか、結構有りそうなアムロとホワイトベース・クルーとの溝がどう埋まっていくのか、という辺りをしっかりと描いてくれれば、ラストの帰還の感動もひときわ鮮やかになるだろう。

本シリーズはアニメ版にない設定や描写があるのも嬉しいのだが、本作で一番印象的だったオリジナルの台詞は、ランバ・ラルがセイラを見つけてしまい、リュウに銃撃され自身の敗北を悟ってハモンに連絡するとき、「忠義を欠いた報いだ・・・アルテイシア様がいた・・・」というもの(アニメ版には無かったよね?)。

ジオン・ダイクンの忠臣ランバ・ラルが、ザビ家の私的な恨みから出た作戦を引き受けたことが、無き主君に対する裏切り行為であり、それを引き受けてしまったコトに対する報いが、ホワイトベースでセイラに出会い、作戦を続行できずに敗北したことだというのだ。これほどに彼の心情を表す台詞はないだろう・・。

ランバ・ラル自死のシーンも圧倒的だが、ここもアニメ版(映画版)の出来の良さが光り、印象的に覚えているシーンだ。

ということで、ハモン編も期待大(ガンダムエースは読んでいないので・・・)。
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2004年03月16日

総門谷R 鵺篇


総門谷Rぬえ
総門谷R鵺(ぬえ)篇 (高橋克彦、講談社文庫)



総門谷Rシリーズの2作目、というか、総門谷シリーズの3作目?でも僕的には「総門谷」と「総門谷R」とは別シリーズなので、前者ということになる。

なぜ別シリーズと思うかというと、主人公たる顕のキャラクターの違いを感じるから。「総門谷」の青年"霧神顕"と「総門谷R」の少年"和気顕"は、確かに同じ特徴を持つキャラとして描かれているが、その魂が違うように思える。これは小説的都合、なのかもしれないが、「総門谷」に現れるプロット的には和気顕の方がふさわしいと思っている。

これは、僕の中で「総門谷」の評価が余り高くないことも影響しているかもしれない。それよりは、「総門谷R」の方が面白く感じている。

さて、本作「鵺篇」だが、何が熱いと行って、無き空海を慕い続ける弟子達の思いが熱い。信仰心とともに思慕の念があふれている。特に小説前半、復活したが記憶の戻らない若き空海を見た老いた遍明がよろよろと膝をつき涙するシーンが象徴的だ。

後半の「高野怨魔戦の巻」でも高野山で敵を迎え撃つ裏高野の僧侶達がやはり復活した空海を見知って号泣し、風天(久遠)が「いい弟子を持ったな」とつぶやくシーンも、また熱い。

こういうシーンが印象に残っているのだが、本編全体も、パターン的なものがあるとはいえ、流石高橋克彦、読ませてくれる。ラストで登場する"ぬえ"がインストールされた鉄戦士などなかなかビジュアル的だ。話がずれるが星野之宣さんの「ヤマタイカ」の後半で、四天王が起動させる奈良の大仏をちょっと思い出した。あのシーンも、それまでの日本民族の起源に対する自説展開と違って、(いい意味で)マンガ的・・・と思ったものだ。

ストーリーの要となる人物はもう1人、小野篁。仏に選ばれた人物でありながら、そうと悟らず総門側に(疑問を抱きつつ)与し、最終的に顕の成長を助けるという厳しい役回り。公憤あふれる若者だが、ラストの高野での戦さまで使命が見えない感じで、そうであればこそ、ラストの涙も納得できる。もう少し、選ばれし使命のことをはっきり書いた方がよりわかりやすかったとは思うのだが。

総門一派がなぜ暗躍しているのか(あれだけの力を持っているのに?)、彼らに敵対してる神々がなぜ沈思しているのか?というところは、ちょっとクエスチョンなのだが、父たる総門と息子たる顕との戦いと考えて、一応納得。

永遠の戦い、というか終わり無き戦いのはずで、全7部作らしいけど、どのように決着させるのか、フォローしていきたいシリーズになっている。

余談だが、個人的に魅力ある師が消え、そして復活するという設定で、僕がどうしても思い出してしまうのが、平井和正さんの幻魔シリーズ。これは僕が中高時代に最もはまった小説なので、僕の読書感の至る所に出てきてしまう。「幻魔大戦」シリーズや「真幻魔大戦」シリーズでは、主人公東丈はストーリー半ばにして姿を消してしまう。しかし、その存在が、例えば思い出や、ある人物の心の中に蘇ってくるというシーンが多々あるし、なによりリアルタイムで刊行されていた「真幻魔大戦」で東丈の帰還を何よりも願っていたのは読者たる自分自身だったので、こういう永遠の別れを成したはずの人と再会するという感動が、なぜか妙に胸にしみてしまう。

そう言う意味では、東丈の化身の1人である役小角が、本作では妖術使いのエロ爺いというところが、なんというかひじょーにツライ。
ラベル:高橋克彦
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2004年03月11日

短評:頭文字D28巻


頭文字D28
頭文字D28巻(しげの秀一、ヤンマガKC、講談社)


書評めいたモノの一発目がマンガというのも僕らしくて良いだろう。

イニDも28巻目。埼玉編があっけない幕切れとなって、本命(?)茨城編へ。いよいよ神懸かってくるドライバー達。高校生編の方が緊迫感と迫力があったと思うのは僕だけか。
更に言うなら、バリ伝の方が荒削りだが迫力のあるカット割りだったのでは。これはまあ、作者の若さ故の勢いだろう。今は魅せる一枚絵的描き方のようだ。

それにしても、この作者、クルマを書くのが上手くなった(暴言)。形そのまま、というより、こんな形だよねというイメージをスゴク上手く描いてあるので、それぞれのクルマの雰囲気が良く伝わってくる。さすが。

僕はプロジェクトD編はそれほど長引かず、プロに転向、親父と同じくダートラあるいはラリー屋になる展開と思っていたが・・・公道バトルがまだ続いている。うーーん、どうなる?

と文句を言いながらも、出たらすぐ買っている辺りが、やはりこのマンガを好きだということだろう。

28巻で特筆すべきは、やはり、恭子。数少ない女性キャラの登場はまたも悲恋で終わる。もっとも、恋というにはあまりに未熟な・・・思慕のようなものだったかもしれない。
彼女や彼の想いが通じるという展開はないものか・・・。
posted by おだまさ at 23:03| Comment(2) | TrackBack(1) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする