2012年04月11日

江戸城外桜田門

 虎ノ門辺りの江戸城遺構を散策した後は、霞ヶ関を抜けて、外桜田門(桜田門)へ。僕のわずかな江戸城散策の中では、初めて石垣以外の建造物と対面だ。

桜田門外見
 時刻は夕方、だいぶ日が傾いてきている。そんな西日に、外桜田門の白壁が光っている。枡形門の全景と堀とのコントラストがすばらしく、おまけに、背後に見える現代のビル群とのコントラストが、何とも言えず、不思議な雰囲気を醸し出している。

 堀を渡り高麗門に近づくと、例によって、説明パネルがある。
重要文化財(建造物)指定 昭和三十六年六月七日 旧江戸城 外桜田門

 現在この門は桜田門と呼ばれますが、正式には外桜田門といい、本丸に近い内桜田門(桔梗門)に対して、この名が付けられました。古くこの辺りを桜田郷と呼んでいたことに由来します。
 外側の高麗門と内側の渡櫓門の二重構造からなり、外枡形という防御性の高い城門で、西の丸防護のため異例の大きさで造られました(三二〇坪)。建築されたのは寛永年間(一六二四〜四四)とされ、現存する門は、寛文三年(一六六三)に再建された門がもとになっています。大正十二年(一九二三)の関東大震災で破損し、復元されました。・・・

 これまで牛込見附跡で枡形門の跡を見てきたが、高麗門、渡櫓のある状態で枡形門を見たのは初めてだったので、夕日の中の外桜田門にしばらく見とれてしまっていた。

 高麗門をくぐって、枡形の中へ。しかし、この枡形門、周囲を桜田堀に囲まれているので、高麗門を抜けた正面には壁が無く、西の丸の石垣が見えている。高麗門をくぐって右手を見ると、巨大な渡櫓門が待ち構えている。幅三十メートル程度、本当に立派な門だ。
外桜田門の渡櫓門
 高さの半分以上をなす石垣と、その上の白壁、やや薄めの屋根、で美しく立派なのだが、どことなく顔に見えたりして、防護のための門なのに、なんとなく和んでしまう。

 基礎をなす石垣は、安山岩、花崗岩で作られていて、つぎはぎなコントラストが遠目にも美しいし、近くに寄れば、その巨大な石の組み合わせの妙に目を奪われる。
渡櫓門の石垣


 これまたひとしきり、たもとから巨大な石垣、門扉、白壁などを眺めて、感じ入った次第。この後は、皇居外苑へ。
外桜田門



ラベル:江戸城
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2012年03月08日

日比谷〜虎ノ門あたりの江戸城遺構

 最近このパターンが多いのだが、また東京出張があって日比谷で用事を済まし、また時間ができたので、今度は日比谷〜虎ノ門〜外桜田門と歩いてみた。このエントリは、日比谷〜虎ノ門。

 ということで、まず「江戸城を歩く(ヴィジュアル版)」で紹介されている日比谷にある江戸城遺構だが、今日は、日比谷公園の日比谷見附跡、ではなくて、日比谷セントラルビル隣の「物産ビル別館増築工事の際地下四メートル余のところから発掘された」(紹介プレートより)石垣だ。
HibiyaStone.jpg

 同プレートによれば、
江戸時代のこの通りは、江戸城の外濠に面し、河岸通りと呼ばれ、・・・賑わいのあった所です。ここに積まれている石は、寛永十三年(1636年)三代将軍徳川家光が多くの大名の助役によって、江戸城外郭の南側(虎ノ門の東)を築造する時に使用した・・・ものです。・・・この附近の石垣は、九州各地の諸大名に割り当てられ、石材は真鶴や根府川あたりから切り出し、海路を運ばせたもの・・・

 セントラルビル南側にこつ然と残っている遺構。メインの通りからそれた脇道なのか人通りも少なく、寂しげなのは否めない。

 日比谷から虎ノ門に向かう途中、東京桜田ビルの横を通るが、このビル、「江戸城を歩く」で紹介されている通り、外堀がカギ型に屈曲していた場所に建てられたため、形がいびつになっており、面している交差点も十字路ではなく、かつての外堀に沿った道がずれている。外堀を埋め立てた後に作ったであろう街並なのに、外堀の形が残っている、ということで江戸城のリアルを感じられる。

 そのまま歩いて虎ノ門へ。商船三井ビルの脇の三角コーナーに、緑に覆われているものの、ごつい石で組まれた、毅然とした石組みがある。ここから、外堀通りを挟んで文部科学省構内にある石垣までが「国史跡 江戸城外堀跡 溜池櫓台」である。
ToranomonStone.jpg

 例によって、説明プレートが近くにあるので見てみると、
この付近の石垣は、寛永13年(1636)に因幡鳥取藩主池田光仲によって構築された櫓台の一部です。この地域の江戸城外堀は、虎ノ門交差点付近に虎御門を置き、そこから文部科学省に現存する3地点の石垣を通過して、この櫓台石垣に至ります。

とのこと。この櫓台、堀が直角に曲がっている角に立っている隅櫓で、外堀にあった隅櫓は、この虎ノ門以外には、筋違橋門と浅草橋門だけにあり、石垣が現存しているのはこの虎ノ門だけだそうな。

 現存しているといっても、石垣の本当に一部だけが、やはりビルの谷間に無言で残っているだけなのだが、その整えられた形は、当時の石垣の美しさを彷彿とさせる。

 上の説明書きにあるように、外堀通りを渡ると、文部科学省構内に点々と三カ所、石垣の一部が残されている。特に隅櫓から見て2番目の石垣は、地下鉄に下る階段の一角に説明スペースが設けられ、当時の江戸城の様子や石垣についての細かな説明を見ることができる。
ToranomonStone3.jpg

 説明スペースの胸の高さ付近(上の写真でいう下の草が生えている辺り)が当時の外堀水面高さになっていて、そこから石垣を眺めることができるのがなかなか面白い。石の表面には、構築大名である豊後佐伯藩二万石毛利高直を示す刻印もよく見ることができる。また、あるブログでは、2004年の発掘時の写真が掲載されている。発掘中で周辺の建物が無い分、より外堀石垣らしく、見えるものだ。

 文部科学省構内に、展示スペース付きで公開されているのが長さ33.5mの石垣部分。説明板によれば、この辺りは摂津三田藩三万六千石九鬼久高の担当箇所だったそうだ。ここの石垣では刻印がどこにあるのかはわからなかったが・・・。
ToranomonStone4.jpg

 それにしても隅櫓からここまで、石垣が点在してしまっているのが惜しい。外堀通りが横切っているし、遺構としては少なすぎる訳だが、歩道や文部科学省構内くらいには、外堀の跡を示すラインなど引いてもらえると、歩道橋の上からでも、今の車の往来の激しい外堀通りを眺めながら、当時の外堀に思いを馳せるのもやりやすくなるものだと思う。

 このあとは、霞ヶ関を抜けて、外桜田門へ。

ラベル:江戸城
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2012年02月26日

牛込見附跡

 小石川後楽園の石垣の後は、神田川沿いを引き返して再び飯田橋駅へ。西口の方に回ると、牛込橋のたもとに大きな石組みが見えてくる。これが、牛込見附の枡形門の趾である。
牛込見附跡の石組み


 牛込見附は、江戸城内郭の田安門(今の日本武道館辺り)から伸びている「上州道(今の川越街道)」が通る、重要地点だったそうだ。見附とは、江戸城外郭にある出入り口で、敵の進入を発見、防止するための見張り番の常駐する門のこと。敵が進入しにくいように、四方を石垣で囲った空間に二つの門が直角に配置されており、そのような構造を持つ門は枡形門と呼ばれる。

 見えている石組みは枡形門にある巨大な櫓門の基礎とな石垣である。上の写真は、櫓門を出た所から枡形門を見ている、という感じのアングルのはずだ。交差点側から見ても、十分大きな石垣だが、牛込橋を渡って振り返ってみると、JRの線路脇からそびえ立つ、さらに巨大な石垣の様子を見て取ることができる。電車の架線よりも高く積み上がっているのだから、その高さがわかるというものだ。これが枡形門を支え、外堀の中にそびえていたわけである。
牛込見附石垣


 石垣のすぐそばには、明治時代に撮影されたらしい、門が健在であった頃の写真と、牛込見附に関する情報が書かれたプレートが置かれている。それによると、
・・・牛込見附は、外堀が完成した寛永13年(1636)に阿波徳島藩主蜂須賀忠英(松平阿波守)によって石垣が建設されました。・・・明治35年に石垣の大部分が撤去されましたが、左図のように現在でも道路を挟んだ両側の石垣や橋台の石垣が残されています。この見附は、江戸城外堀跡の見附の中でも、最も良く当時の面影を残しています。・・・
牛込見附跡説明看板



橋から見る牛込見附の石垣は、看板の写真と似たアングルになるので、高麗門と櫓門が建っていた当時の偉容がイメージできるというものだ。

 なお、こういう江戸城遺跡巡りをするきっかけとなった本「江戸城を歩く(ヴィジュアル版)」で紹介されている牛込見附の石垣は、線路側の面全体がツタで覆われていて、悲惨な状況なのだが、僕が行ったときは、上の写真のように、大部分が除去されて、きれいになっていた。このことは、実は先の本の著者である黒田涼氏のブログでも取り上げられていた(2011年7月6日エントリ)。その時に比べると、またツタが生えてきているみたい。
ラベル:江戸城
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2012年02月12日

小石川後楽園の石垣

 東京に残る江戸城の遺構を巡る本「江戸城を歩く(ヴィジュアル版)」のエントリに前の東京出張時のことを書いたが、再び出張、今度は飯田橋周辺を歩く時間を持てたので、そのエントリをアップ。

 午前の現場が済んで牛丼屋で昼食を済ませた後、昼休みの時間を利用してあたりをぶらついてみた。まずは、小石川後楽園。水戸光圀が完成させた水戸徳川藩上屋敷庭園跡として有名なこの公園だが、中には入らずに、外側の石垣を眺める。「江戸城を歩く(ヴィジュアル版)」で紹介されているのだが、入り口から北に向かう築地塀の下側の石垣が、途中から東京駅付近で発掘された江戸城石垣を再利用して作られている。

 公園入り口脇にある案内板によれば、
・・・築地塀の石垣の一部(プレート設置箇所)は、江戸城鍛冶橋門北側外堀趾(千代田区丸の内一丁目)から出土した石垣の石材を使い、本園の作られた江戸時代初期(17世紀初頭)の「打ち込みハギ」と呼ばれる石積の技法で再現しました。・・・
koishikawaPlate.jpg



とのこと。鍛冶橋門は、今も鍛冶橋通りと名前が残っているようだが、今の東京駅と有楽町駅の間、京葉線地下ホームのちょうど真上辺りにあったらしい。

 看板に石垣を築いた大名を表す「刻印」が残っているとあるが、果たして、備中成羽藩三万五千石藩主山崎家であることを示す(山)の刻印のついた石が多く積まれていた。濃い灰色の無骨な石垣だが、江戸時代初期からのものと思えば、その迫力を感じずにはいられない。
石材に残る山崎家の刻印


 人通りのほとんどない築地塀脇歩道を行ったりきたりして無骨な石垣を眺めながら、江戸時代に思いをはせてみた。

小石川後楽園の石垣


 小石川後楽園の後は、飯田橋駅西の牛込見附跡へ。

ラベル:江戸城
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2012年01月22日

江戸城を歩く(ヴィジュアル版)(黒田涼)

 出張で上野駅の仕事の後、市ヶ谷へ向かった。ここの用事を済ませた後、江戸城外堀沿いを歩いて、JR市ヶ谷駅へ。この、外堀の北側からJR市ヶ谷駅へ向かう橋の下の石垣は、実は江戸城の遺構で、市ヶ谷門に続く橋台で江戸時代からの石垣だ、ということを本書で知った。市ヶ谷駅ホームから眺めると、橋の丁度下に外堀の2/3位を占める、本当に巨大な石垣が弧を描いてそびえているのがよくわかる。

 しかし、これが江戸城の石垣であるという説明はどこにもなく、なんだか寂しい限りだ。石垣とJRのホームの間には無粋な看板があって、真正面から見ることもかなわない。また、石垣の上面が斜めになって外堀間をつないでいる様子が見えるが、これは、おそらく道路を敷く時に削られてしまったからなのだろう。それだけ、江戸城外堀の内側(本丸側)と外側には高低差が設けられていたのだ。

 本書によれば、それとは気づきにくい江戸城の遺構は他にも色々あるようだ。こういう今もかろうじて残っている江戸城の遺構から、江戸城、江戸の街ということを思い起こすことができるところが、東京の貴重なところだと思う。東京の街を歩く機会というのはなかなか無いのだが、本書片手にもっと色々なところを歩いてみたいものだ。
ラベル:江戸城
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洋食や 三代目 たいめいけん(上野駅)

 出張で上野駅へ。構内での仕事だったのだが、あちこちうろついていると、駅ナカでたいめいけんを見つけた。正確には、「洋食や 三代目 たいめいけん」で、たいめいけん三代目の茂出木浩司さんが日本橋の本店とは別にサテライト店として展開している系列店だ。とはいっても久しぶりのたいめいけん、寄らずにはおられない、ということで、昼少し前の11時半ころ、店を訪れた。

 しかし、さすが、上野駅の駅ナカ、すでにかなり混んでいる。僕の大きな出張荷物を見たフロアの見た店員さんが四人がけのテーブルに案内してくれたのは助かった。店の中は、板の間のフロアで、本店と同じくキレイでさっぱりしている。

 店の性格らして、料理の種類はかなり限られていて、オムライス、ハヤシライス、ラーメンが中心、周りを見ると、さすがにランチで定番のオムライスを頼んでいる人がほとんどのようだったが、僕はやはりそういう気分ではなく、ポークソテージンジャーソースとライス(980円)、それからボルシチ(50円)を注文。味は、ソースも肉も、期待に違わず美味い!。付け合わせのサラダも少し酸っぱくてさっぱりしている。料理全体がとんがって美味い、というのではなく、ほっとする美味さだ。この美味さで1,000円程度なのだから、それも嬉しい。これが今の所の僕にとってのたいめいけんだ。
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2011年12月15日

東京から見た富士山

東京から見た富士山 出張で品川から一駅の大井町へ投宿。翌朝はゆっくりできる時間があったので、遅めの朝食を取りにロビーに降りようとすると、泊まったホテルの9階の窓から、澄んだ空を背景に雪を頂いた富士山が、きれいに見えた。「東京で見る富士山」は中々ない経験。江戸時代の浮き世絵に描かれた富士山を思い浮かべた。

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2011年10月07日

巨星堕つ。

 appleの元CEO、スティーブ・ジョブズが亡くなった。享年56才。また一つ、あまりにも早く、この世界から偉大な才能が失われた。氏のご冥福をお祈りします。

 僕は熱心なapple信者ではないが、10数年前のwindows3.1時代に初めて7色林檎に出会い、PowerMacを手に入れて以来、Macを使い続けている(このブログもiMacで書いている)者として、やはり哀惜の念を抱かざるを得ない。
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2011年07月13日

つがる路

110712sijimi.jpg 久しぶりに青森/三沢への出張が入った。10年以上前に何度か行って以来だったのだが、行ってみると・・・記憶からよみがえってきたのは、青森駅から三沢駅に向かう電車が経由する野辺地駅の防雪林のたたずまい、三沢駅付近の道路の曲がり具合、三沢市内のアーケード、位。やはり覚えていないものである。

 一泊二日の出張で、夜は同僚と、ホテルのフロントに教えてもらった居酒屋「いろり」で地酒とともに色々な魚料理や十三湖産の大粒シジミのバター炒めなどに舌鼓を打っていた訳だが、写真を撮っていなかったので、ここでは、やはり十三湖産のシジミを使ったシジミラーメンの記事をアップする。

 青森駅で三沢行きの電車の待ち時間に駅前の食堂「つがる路」にて。塩ラーメンにシジミが入っている、と言えばそれまでなのだが、シジミの出汁が程よく出ていて、なるほど、という味わいで旨い。地味だけど、青森に十三湖や小川原湖のシジミのイメージを持っている人なら、味わってみるのも良いだろう。お値段は700円也。

 それにしてもこの三沢出張、10年前と色々違って考えさせられたのだが、まず伊丹からの三沢直行便がなくなっていた。元々JASだったので、今のJALの路線削減でなくなったのかもしれない。それから、青森駅〜三沢駅間がJRではなく第三セクターの青い森鉄道になっていた。以前も本数が多かったわけではないが、昼間は1時間に1本もないような運行状態。聞けば、青森新幹線が青森まで開通したことの影響で、八戸〜青森間が三セク化されたのだそうだ。青森新幹線の影響は三沢にも及んでいて、三沢には新幹線は通っていないので、この辺の中心駅が他に代わってしまい、三沢もやや人が減っているそうだ。そうしていると、話は飛躍するが、博多まで開通した九州新幹線も、色々な影響を回りに与えているのだろう。

 三沢から待ち時間と移動時間を同じくらいかけながら、青森空港へ移動し、伊丹便で帰って来た。久しぶりの機窓からの写真もアップしておこう。日が沈む直前の、雲海上の空の様子。縮小しているので写真では見えなくなっている細い三日月がきれいだった。
110712aomoriitami.jpg
ラベル:麺類
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2011年05月22日

八日目の蝉(角田光代)


 嫁さんが知り合いから借りてきた本。ラストが泣ける、ということで、嫁さんも後半涙々、だったようだ。僕も親子ものでは割と涙腺が緩い方なので、どうなることかと思っていたが、僕には、そこまでの情念の揺さぶりはなかった。というのは、僕が男だから、かもしれない。かといって、退屈で詰まらない小説、では決してなかった。

 解説にも書かれているが、本書は徹頭徹尾、まともな男の登場人物が出てこず、女性(それが親子ですらも)のみで物語が展開する。赤ん坊を誘拐して最初に逃げ込む先は名古屋の老女。その次は女性のみで構成される自己啓発団体(?)エンゼルホーム。ここでは魂の負荷物の例として性差が象徴的に取り上げられる。エンゼルホームを抜け出した先の小豆島のラブホテルも素麺屋でも、主人公を包み込む登場人物は皆女性だ。唯一まともそうな男が、誘拐犯と知らず希和子に思いを寄せる役所職員か。希和子が逮捕され、薫だった少女が大人になった恵理菜としてこの事件をとらえる第2章で、恵理菜の実父秋山丈博、不倫交際相手の岸田が男の登場人物として出てくるが、他者に対して責任を引き受けない無能(とは少し違うか)としてのほとんど符号的な役割でしか登場しない。

 つまり、父親が存在しないまま、親(=母親)と子の関係を描く物語が進行していく。女性の目で描いた子供、そして子を産むかもしれない女性としての娘の目から見た(母)親、という物語に対して、決して自分が産んだ子供ではなくとも母親と子が持つその緊密さに我ら男はかける言葉すら持たず、なす術無く立ち尽くしている、という感であった。

 それゆえに、前半の逃避行より、後半の恵理菜の視点から見た事件の再構築、そして彼女の半生の苦しさ、親であるのに親ではない、家族であるのに家族ではない、という描写の方が心に響いた。もし、恵理菜(薫)が女ではなく、男だったら、おそらく、実の父母に引き取られた後の少年〜青年時代の主人公の話となり、また違った展開となったろう。

 ラスト、恵理菜が子供を産むことを決心し、自分の本当の原風景と知っていた小豆島に渡って行くシーンを、希和子の視線をもって神々しく描いて物語が終わる。ここで思うのだ。恵理菜の子供が男の子だったら、この物語はどこに向かって行くのだろう?と。
posted by おだまさ at 23:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする