最近このパターンが多いのだが、また東京出張があって日比谷で用事を済まし、また時間ができたので、今度は日比谷〜虎ノ門〜外桜田門と歩いてみた。このエントリは、日比谷〜虎ノ門。
ということで、まず「
江戸城を歩く(ヴィジュアル版)」で紹介されている日比谷にある江戸城遺構だが、今日は、日比谷公園の日比谷見附跡、ではなくて、日比谷セントラルビル隣の「物産ビル別館増築工事の際地下四メートル余のところから発掘された」(紹介プレートより)石垣だ。
同プレートによれば、
江戸時代のこの通りは、江戸城の外濠に面し、河岸通りと呼ばれ、・・・賑わいのあった所です。ここに積まれている石は、寛永十三年(1636年)三代将軍徳川家光が多くの大名の助役によって、江戸城外郭の南側(虎ノ門の東)を築造する時に使用した・・・ものです。・・・この附近の石垣は、九州各地の諸大名に割り当てられ、石材は真鶴や根府川あたりから切り出し、海路を運ばせたもの・・・
セントラルビル南側にこつ然と残っている遺構。メインの通りからそれた脇道なのか人通りも少なく、寂しげなのは否めない。
日比谷から虎ノ門に向かう途中、東京桜田ビルの横を通るが、このビル、「江戸城を歩く」で紹介されている通り、外堀がカギ型に屈曲していた場所に建てられたため、形がいびつになっており、面している交差点も十字路ではなく、かつての外堀に沿った道がずれている。外堀を埋め立てた後に作ったであろう街並なのに、外堀の形が残っている、ということで江戸城のリアルを感じられる。
そのまま歩いて虎ノ門へ。商船三井ビルの脇の三角コーナーに、緑に覆われているものの、ごつい石で組まれた、毅然とした石組みがある。ここから、外堀通りを挟んで文部科学省構内にある石垣までが「国史跡 江戸城外堀跡 溜池櫓台」である。
例によって、説明プレートが近くにあるので見てみると、
この付近の石垣は、寛永13年(1636)に因幡鳥取藩主池田光仲によって構築された櫓台の一部です。この地域の江戸城外堀は、虎ノ門交差点付近に虎御門を置き、そこから文部科学省に現存する3地点の石垣を通過して、この櫓台石垣に至ります。
とのこと。この櫓台、堀が直角に曲がっている角に立っている隅櫓で、外堀にあった隅櫓は、この虎ノ門以外には、筋違橋門と浅草橋門だけにあり、石垣が現存しているのはこの虎ノ門だけだそうな。
現存しているといっても、石垣の本当に一部だけが、やはりビルの谷間に無言で残っているだけなのだが、その整えられた形は、当時の石垣の美しさを彷彿とさせる。
上の説明書きにあるように、外堀通りを渡ると、文部科学省構内に点々と三カ所、石垣の一部が残されている。特に隅櫓から見て2番目の石垣は、地下鉄に下る階段の一角に説明スペースが設けられ、当時の江戸城の様子や石垣についての細かな説明を見ることができる。
説明スペースの胸の高さ付近(上の写真でいう下の草が生えている辺り)が当時の外堀水面高さになっていて、そこから石垣を眺めることができるのがなかなか面白い。石の表面には、構築大名である豊後佐伯藩二万石毛利高直を示す刻印もよく見ることができる。また、ある
ブログでは、
2004年の発掘時の写真が掲載されている。発掘中で周辺の建物が無い分、より外堀石垣らしく、見えるものだ。
文部科学省構内に、展示スペース付きで公開されているのが長さ33.5mの石垣部分。説明板によれば、この辺りは摂津三田藩三万六千石九鬼久高の担当箇所だったそうだ。ここの石垣では刻印がどこにあるのかはわからなかったが・・・。
それにしても隅櫓からここまで、石垣が点在してしまっているのが惜しい。外堀通りが横切っているし、遺構としては少なすぎる訳だが、歩道や文部科学省構内くらいには、外堀の跡を示すラインなど引いてもらえると、歩道橋の上からでも、今の車の往来の激しい外堀通りを眺めながら、当時の外堀に思いを馳せるのもやりやすくなるものだと思う。
このあとは、霞ヶ関を抜けて、
外桜田門へ。