2008年10月21日

キース・エマーソン・バンドのライブに行ってきた!

 3年ぶりのキースのライブに行ってきた!。詳細は後日あらためてアップするとして、強く印象に残ったコトだけ書いておくと、
 ・やはりキースは天才だ
 ・天才は歳をとらない!
ということだろうか。会場で買った新譜の特典DVDを見れば、それはそれなりに老けているキースだけど、円熟はしても老成せず、そのスピリットは昔から変わらないキースそのもの!。

 今回、涙腺が一番熱くなった曲、それは"Touch and Go"だった。オリジナル版相当のシンセバージョンを聞いていると、万感こみあげてジーンとしてしまった。曲の後に、キースが「無きコージー・パウエルに」というようなことを言っていた(たぶん)ので、余計に。
posted by おだまさ at 01:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 気になるコト文系 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月18日

キース・エマーソン来日!


 ふと流していたカーラジオから聞き慣れた「展覧会の絵」のフレーズが流れてきた。
 (・・・これは?)
と思っていたら、恐るべきアナウンスが!

 キース・エマーソン来日!。オリジナルバンドでライブ!!

 驚いた、これは。もうキースの来日もライブもないだろうと、思っていたから(こんなファンでキースごめんなさい)。

 ライブはもう来週で、情報入手が遅すぎたわけが、幸いにも当日券はまだあるとのこと。マネージメントをしているウドー音楽事務所に連絡して、チケットぴあでもチケットが入手できるコトを知り、ファミリーマートの端末から購入(\8,500なり)。

 前回のライブからちょうど3年。しかもつい最近キース・エマーソン・バンドとして新譜も発表していたようだ。もう日が無いので新譜を聴いてからライブに行くというのは難しいが、何にせよ3年ぶりのライブに、心して行かねばなるまいと、決意もあらたに、過去のELPのアルバムを聴く毎日。本当に楽しみ。
posted by おだまさ at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 気になるコト文系 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月16日

ゲド戦記V「アースシーの風」


 ゲド戦記の1巻「影との戦い」を初めて読んだのは、たぶん二十歳頃。自分自身の虚栄が生み出した影を追いつめ、それを受け入れ、一つの存在として勝利するゲドの物語には、「老いを待たずして竜王と大賢人の称号を持つ男の若き日の話」という書き出しと相まって一気に引き込まれていった。

 そのイメージがあるものだから、四巻の「帰還」で全ての力を使い果たし、「弱き存在」のようになってしまったゲドを見るのは辛く、全編の重苦しい雰囲気と相まって、受け入れることができなかった。そのため、それ以降をずっと読んでいなかったのだが・・・外伝に興味ある話が載っているということは聞きかじっていたので、意を決して読んでみることにした。

 「ゲド戦記外伝(アースシーからの物語)」は、冒頭の「カワウソ」こそ、「帰還」のような重苦しい感じはあるものの、ロークに学院が出来上がった経緯を興味深く語ってくれた。秀逸なのはゲドの最初の師匠オジオンの若き頃(というより彼の師匠)を描いた「地の骨」と、大賢人としてのゲドのサブストーリー「湿原で」。これらは、物語の重さと語り口の妙がバランスよく、そしてアースシーの物語の変遷を予感・感じさせるに十分な話だった。そして5巻「アースシーの風(もう一つの風)」へとつながる「トンボ」。アースシーの「今の」世界観に引き込まれて、一気にこの5巻にまで手を伸ばした。

 この「アースシーの風」はこの「トンボ」のすぐ後、「帰還」の十年後くらいの物語だ。ゲドはもはや大賢人でもなく大魔法使いでもないが、それでも隠しきれない何かを持つ存在(されど辺境に住む老人)として描かれていく。物語の語り部はハンノキ・・・ある意味でゲドと対照的な、また同じような主人公だ。もう一人の主人公が、死の石垣を壊そうとしたクモをゲドとともに倒し、ハブナーの若き王となったレバンネン。

 「影との戦い」以降の3冊では魔法、すなわち(男の持つ)知力により、己とその影との統合を描き、世界を全たきものになそうとするという物語であったのに、その考えそのものが暗く混沌とした情念的な世界(それは太古の力、あるいはまじない女などとして表現される)を締め出し、世界を不完全にならしめていたというパラドックスを生みだしたということが明らかとなり、おそらく振り切った振り子が大きく戻るように四巻「帰還」が描かれ、そして、ようやく均衡点ともいうべきところへ、この5巻で達した、と感じる。

 訳者も後書きで述べているように、5巻では「ロークの学院に象徴される知の世界も、・・・かつて無いほど相対化され」、それは世界を構成する様々な要素の一つでしか過ぎなくなっている。その反対に、かつてはロークの学院には女性は入ることができなかったという世界を壊すかのように、ハンノキとユリの永遠の愛、またゲドを思うテナーの思い、レバンネンを思うセセラクの想いに光が当てられている。

 そして、永遠に固定した暗黒の死後の世界は、知(魔法)を知った西の地方の人々が欲望の果てに永遠の不死を求めたが為に生まれてしまったと描かれる。その境目を壊し、生と死が解け合うことで世界という円環がようやく閉じられた。そして竜は去り、人間は残された。竜が去った国に魔法はまだ残っているのだろうか?この光の国にはもはや不要なのかもしれないが。

 この長い冒険の物語の最後は、ゲドとテナーの穏やかな会話で幕を閉じる。もしかしたらこの安堵感は、ある程度齢を重ねないと分からないのかもしれない、と思う。
posted by おだまさ at 00:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月27日

スパゲティハウスチャオ

 関西に来て10年を超えたが、その前には名古屋に9年ほど住んでいた。したがって色々思い出深い街で、出張などで脚を運ぶ機会を探しているのだが、なかなかあるものではない。

 それでも先日、知多方面に行く用事があり、夕方に名駅に帰ることができたので、地下街をちょと脚を伸ばして、訪れたのがスパゲティハウスチャオ。名古屋のご当地料理、あんかけスパゲティの店だ。

 名古屋名物と言えば、味噌カツや櫃まぶし、味噌煮込み饂飩などがメジャーなのかもしれないが、僕としては手羽先の唐揚げ(自分は山ちゃん派)、味仙の台湾ラーメン、そしてこのあんかけスパ辺りが思い出深いメニューだ。

あんかけスパ大盛り 食事時は老若男女(スパゲティ屋でこれほど男性サラリーマンの入る店も珍しいだろう)で込み合う店だが、17時少し前という変則的な時間なので空いていた。頼んだのはミラネーゼのジャンボ(大盛り)で、870円なり。ご覧の通り、赤ウィンナーとマッシュルームのスライスを炒めたものを極太のスパゲティ麺に載せて独特のあんをかけまわしたもの。このあんがすこしぴり辛くクセになる味。

 ということで、僕は大好きなこのあんかけスパ、しかしググって見るとあんまり評判がよくなさそう?。確かにいわゆるスパゲティを想像して食べると期待を裏切られるかもしれないが、麺類が好き、という輩であれば、おそらく気に入ってもらえるだろう一品だと思う。

 夫婦共に名古屋出身の我が家では定番の味、レジで売っているレトルトのソースをついつい所望してしまう。
タグ:麺類
posted by おだまさ at 00:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 食事雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月02日

親鸞の告白


 縄文時代からの原日本人、日本文化に対して、独自の思想体系を生み出してきた梅原氏の親鸞あるいは「歎異抄」に関する過去の著作や講演録をまとめたもの(小学館文庫)。書かれた時代も1984年〜2000年で、文庫化にあたり加筆修正されているようだが、全体としてややバラバラの感はある。されど、これまでほとんど名前しか知らなかった親鸞、浄土真宗、そして歎異抄について、梅原氏の視点で照らしだされた姿を見ることができて、色々と考えるところがあった。

 書の構成は、親鸞その人について、浄土真宗教団の発生と発展、歎異抄と蓮如、そして歎異抄について、という内容からなっている。教団については、人間関係がややこしくてなかなかすんなり頭の中に入ってこなかった。それはそれとして後半の蓮如、そして歎異抄から伺い知る親鸞の信仰(ただし、歎異抄によってのみ親鸞を理解するのは適切ではないと著者は語っている)が非常に面白かった。

 歎異抄も梅原版現代語訳が付いているので読みやすく、突き抜けたような内容に驚いた。特に第九条。著者の唯円が親鸞に、「念仏を唱えていても楽しくない。楽しく暮らせるはずの極楽浄土にも早く行きたいという気持ちにならない。これはどういうことでしょう。」と問いかけると、親鸞が「自分もそうだ。」と応えたというではないか。浄土真宗の開祖とされる親鸞が、だ。そしてこう応える。「喜ばないから、かえってわれらの極楽往生はまちがいないと思わなければなりません」(梅原訳より)。著者も指摘するおそるべきパラドックスだ。

 他にも、往生するために善行を積むということは決して極楽浄土に往生するためにならない、という文言がそこかしこに出てくる。「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。」という有名な、激烈なパラドックスの一節がそれを端的に言い表している。

 この非道徳的な教えは一体なんだろう、と思う。そして著者の指摘にハッと気が付く。「信仰(あるいは救い)は道徳ではない」と。

 西洋はユダヤ教、キリスト教に代表される一神教であるのに対し、東洋(日本)は八百万の神で多神教とはよく言われるが、この著作から思われる処は、浄土真宗もまた、阿弥陀仏という唯一絶対神を中心とした信仰である、ということだ。もちろんそれは罰する神、道徳的な神ではなく、自分の中の悪、煩悩に悩み迷う無明の徒を救う神(仏)だ。この点で、親鸞の考えは、イエスが語った山上の垂訓「幸いなるかな 心貧しきもの。天国は彼等のものなればなり。」と見事に重なってくる。まさに唯円が遺した親鸞の信仰はイエスのそれと同じと思えてならない。救われるのは立派な人、裕福な人ではなく、自分の業の深さ・心の弱さに悩み、右往左往している凡夫なのだと。そのために仏(神)はいるのだと。こういう弱き者を肯定する信仰というものが日本にあったということに驚いた。弱き我々を救うのは唯一超絶的な存在しかないとすることで、我々の弱さ、無力さが肯定的価値観へと転換される、という不思議さ。

 こう解釈すると、自らの弱さを悔いている徒への救いは道づけられるのだが、残るのが自ら悪へと志向する徒がどうなるのか、だ。僕がかつてよく読んでいたキリスト教作家遠藤周作さんが晩年の著作で立ち向かっていたのがこの悪の問題だ。本書でも、著者が「親鸞の深い宗教的体験を感じさせる悪」と表現している。そして著者によれば、この奥深い悪を内包した人間も(こそ?)救われるというのが親鸞の教えであるようだ。それは遠藤氏が最後にたどり着いた母なる河と同じ、全てを委ねるところに、在るのだろう。

 余談ながら、仏教の場合、聖人という存在が信者にとって仏(阿弥陀仏)と同一視されるレベルなのか、それともある理想の信者であるのか、よくわからない。されど、あくまで救いをもたらすのは阿弥陀仏の発願であるとすれば、やはり絶対神は阿弥陀仏のみ。親鸞も理想の信徒という姿であるのなら、同じような思想を説いて神格化されたイエス、という存在の不思議さをあらためて思う。
posted by おだまさ at 00:33| Comment(1) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月15日

彩華ラーメン

彩華ラーメン大盛り 5月頭の連休で奈良の方に遊びに行ったその帰り、久しぶりに彩華ラーメン(橿原店)に立ち寄った。大阪の東南に住んでいて、この彩華によく行っていたのは下の子が生まれる前だからもう7年前にもなる。

 今は24号のバイパスが二上山近くを超えて大阪まで高速で接続されているが、当時はその高架を建設している最中だったので、覚醒の感があった。ナビの付いてないmyプントで地図を見ながら、榛原の方から走っていくと、どうも通り過ぎたよう。でも、見覚えのある交差点に出て、「確かこの道を北に行って・・・交差点を右に・・・」景色は変わっているものの、ところどころに覚えている建物があって、「覚えているもんだナ〜」と自画自賛しながら、無事店に到着。

 店の中も、当時の改修後の長机、座敷、テーブルという構成から変わっていないようで、「その前は大きなテントの中の屋台みたいだったんだよな〜」と奥さんとひとしきり懐かしむ(でも、サイトを見ると最近改装していたようだ)。注文は、彩華ラーメン大盛り。

 味わいは・・・縮れ気味の細麺と少し辛くこってり風で大蒜の効いたスープが、これだよね〜と言わしめてしまう。いつも食べ終わるとくどくなり、今度来るときは小盛りにしておこうと思いつつ、実際に来てしまうと大盛りを頼んでしまうという、自制心の無さが露呈してしまう店だ。

 まあ、洗練された美味さがある店、ではないし、チャーハンもピラフのようで、格別美味いという訳でもないと思うが、ラーメンの味わいや店の感じが自分に合っているというのか、また来ようと思わせる。とはいえ、大盛りで930円というのは、小麦価格上昇の折りとはいえ、ちと高い。
タグ:麺類
posted by おだまさ at 23:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 食事雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月12日

船場吉兆使い回し報道に思う

 少し前のニュースだが、船場吉兆で食べ残しを使い回していたという報道があった。

牛肉の産地表示を偽ったとして大阪府警の家宅捜索を受けた高級料亭「船場吉兆」(大阪市中央区)が、昨年11月の休業前まで本店の料亭で客が手付かずで残した料理を別の客に提供していたことが2日、分かった。(中略)大阪市などによると、船場吉兆が使い回していたのは、本店で出していたアユの塩焼きやゴボウをウナギで包んだ「八幡巻き」、エビと魚のすり身を蒸した「えびきす」、サーモンの焼き物、稚アユの素揚げ、刺し身のツマの少なくとも6品目。(日経ネット(2008年5月2日)

 当然、報道では客が手付かずで残した料理を「別の客に提供していた」ということが問題とされ、非難の対象になっているわけだが、それよりも、すり身の蒸しもの、サーモンの焼き物、鮎の素揚げとか、よくは知らないがどうも一品料理と思われる料理に箸を付けなかった客こそ、その作法を問われるべきではないか。

 調理した品が全く手付かずで下がってくる、しかも、使い回しが報道になるくらい頻繁にそういうことがあったということだ。まさに飽食の時代ここに極まれり。料理に対する客の心遣いの無さが、こういう問題を生むのだと思う。
posted by おだまさ at 00:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 食事雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月17日

ゲーム機

 我が家の長男は小学一年生。学校友達から色々な情報を仕入れてくる。最近はついにWiiやDSが欲しいと言い出すようになってきた。友達宅で遊んだことがあるあらしい。さらに、ウチに遊びに来た友達が「遊ぶもの全然無いね」と言い放っていったようだ。なんと無礼な、と思わぬでもないが、プラレール、ダイヤブロックとかで、今時の子供が遊びそうなものはあまり無いのも確かだ。さりとて、Wiiをすぐに買えるほど、財政的に余裕があるわけでもなく・・・

 ということで、10年ぶりに復活させたのが、セガ・サターン(^^;)。僕が昔使っていたモノで、度重なる引越にも捨てずに持ち歩いてきた。内蔵のボタン電池だけを交換して、一応、動いた。セガラリー、デイトナUSA、ナイツ辺りを出してきたら、子供達大喜び。とりあえず、息子達だけでするときは1日30分、という約束でやってよいことにした。さて、いつまで騙せるやら・・・?
posted by おだまさ at 23:33| Comment(5) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月06日

新ルパン

 ケーブルテレビで新ルパン・・・赤ジャケットのルパン三世のTVシリーズの再放送をやっていたが、つい先日、終了した。

 その最終盤の傑作と言えば、「死の翼アルバトロス」と最終回「さらば愛しきルパンよ」。いずれも演出、絵コンテ、脚本は照樹務・・・旧ルパンを影で支えたあの宮崎駿氏である。

 当然ながらストーリーの完成度、演出の密度が桁違いに高い。それに応じるかのように背景も、丹内司作監率いる作画陣もハイレベル。いまから27年も前の作品というのが信じられない。完成度が群を抜いているといおうか、つぼにはまる気持ち良さ、吸い込まれるカット割、ちょっと照れくさくなるような人情味・・・中堅として活力ある宮崎氏の手腕が冴えている。

 作画もそれに見事応えて、とにかくルパンが動き回る。空飛ぶ乗り物を描かせたら右に出るモノなしという氏の演出を見事に支えているアルバトロスとレシプロ機の空中戦。かと思えばラムダの最新兵器らしからぬゆったりとした動き。東京のど真ん中で大砲をぶっ放す戦車群の緊迫感。最近のアニメ(といってももう10年くらい見ていないが)のメリハリと勢いだけの動かし方やCGでの奇妙な滑らかさとは全く違うアニメらしさがそこにある。そういえば、かつて安彦良和氏が「めぐりあい宇宙」の製作をしているときに、宇宙空間でガンキャノンがややロールしながらゆっくり迫ってくる作画こそ、劇場版での再作画の白眉の一つ・・・TVシリーズではそういうコマを喰う動かし方ができない・・・というようなことを語っていたという記憶がある。

 そういうことはさておき。久しぶりにじっくり見ることができたこの2作。とにかく面白いし気持ちよい。本放送当時は中学生くらいだったが、アニメックか何かで掲載していたこれらテレコム2作品の特集記事を何度も読んでいたっけか。結局、僕は昔のまま成長していないという・・・。
posted by おだまさ at 00:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 気になるコト文系 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月16日

ゴッホ殺人事件(上、下)

 久しぶりに読んだ高橋克彦氏の新作(僕にとっての・・・だけど)。

 例によって引き込まれる展開。上巻を読み終わって待ちきれずに下巻へ突入。既にぱらぱら立ち読みしていて知っていたのだが、浮世絵三部作などに登場する美術探偵(?)塔馬が登場してくるところなど、わかっていても「おぉ〜」と一人感激してしまった。電話の直後の由利子の独白など、よくある台詞なのに、のせられてしまう・・・キャラが立っているが故の強さだ。

 由利子と塔馬、アジム、杉原で、オランダ、フランス、日本と舞台を変える殺人事件の展開を最後まで勢いよく読ませる高橋節は健在、というところでファンとしては満足満足。惜しむらくは、犯人候補の主要登場人物が一人最後に残ってしまう点、そして由利子のその後があまり明るく(というかはっきりと)描かれなかった点。このため、それまでの爽快感に比べ、やや寂しい読後感だった。

 物語の横糸ととなる、画家ゴッホの自殺にまつわる謎に関しては、ほとんど知識を持ち合わせていなかったので、前半のマーゴの論文の形を借りた筆者の主張を、なるほど、と読んだ。生前に1枚しか絵が売れなかったなども知らなかったので、僕にとっては、自殺よりもその方が本当に謎に思えるし、兄弟の確執で埋もれていたのだとすれば、恐ろしいことだ。ラストの、マーゴ説を否定する別論立ては、死していく兄、そう仕向けてしまったことを悔やむ弟、と、そうあって欲しいという作者の思いか。
タグ:高橋克彦
posted by おだまさ at 00:24| Comment(0) | TrackBack(1) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。